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投稿:長野 央希 |
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現在、北中米W杯が着々と進行し、ベスト8まで出そろいました。 様々な物議をかもしている大会ではありますが、色々な問題はこれまでの大会でもありましたので、物議をかもすこと自体は珍しくはないと言えます。しかしながら、一国の大統領がFIFAの会長に電話したりということが公の場にさらされること自体、とんでもない問題ではありましょう。(もしかしたら、これまでも秘密裏にそう言ったことが行われていたのかは分かりませんが) 五輪もW杯も商業主義、拝金主義的な要素が増大していることの弊害のようにも思えます。 そもそも、ウクライナに戦争を吹っ掛けたロシアを出禁にしておきつつ、イランに戦争を仕掛けた米国はのうのうと出場しているということが大きな矛盾であるはずなのに、それは誰も騒がない。米国という金の成る木は大会主催者側には不可欠だからなのでしょうが。 ベスト8の顔ぶれを見ると、そのうち6か国が欧州になります。今のサッカーというものが組織戦、総力戦になっていいることの証左なのかもしれません。 アルゼンチンとエジプトの試合は、大会史上でも最も劇的な試合であったかもしれませんが、エジプト側は審判のアルゼンチン寄りの判定に対する不服を訴えております。ただ、主審はフランス人なので、自国のためにアルゼンチンに不利な判定を下してもおかしくはなさそうですが、そうはしませんでした。アルゼンチンに買収されていたような感じにも見えません。ただ、アルゼンチンのリーダーであるメッシはすでに20年、世界のトップオブトップのような存在として活躍してきたため、サッカーの業界人からすると、すでに神格化されていたり、子供のころからのヒーローのような存在で、あこがれの対象とすると、無意識化にメッシの側に有利な判定を下してしまう可能性もあるのだろうかなどと考えてしまいます。 ベスト8のフランス対モロッコ戦の審判がアルゼンチン人のみで構成されるということで、フランスに不利な判定を下すのではという懸念がなされております。何故こんなきな臭い人事をしたのかという思いにもなります。仮にアルゼンチンが勝ち進んだ場合、その勝利にケチをつけられるような事態は避けた方が、後味もいいと思うのですが。 以前ほどではないですが、サッカーの熱狂的なファンやフーリガンの事件というのは今でも時々話題になります。スポーツ応援という物には、宗教のような狂信性を伴う面があるように思えます。 自分の青春時代を振り返ると、強く思い起こされるのです。 自分は浪人時代、最も狂信的な広島東洋カープの信者となっていました。 自分の不勉強ということがまいた種で浪人しておりましたが、その時期は常に自分が不遇であるような気持ちを抱いておりました。そう考えること自体、自分の非を棚に上げて、周囲に責任転嫁しているわけで、自分の精神的な稚拙さを如実に表しているのですが、当時の自分はそんなことにも思い至りませんでした。現実逃避のように広島の野球の試合にのめりこみ、横浜に住んでいましたが、必死でRCC中国放送のラジオに合わせて、ものすごい雑音の中で中継を聴き、負ければ、翌日は一日不機嫌の塊のようになっている。あの時期に、身の回りに同じような熱狂的な広島ファンの人が数人いたら、恐らくフーリガンになっていたのではないかと思えます。 自分の境遇に不満を抱えていたり、不遇であると思えたりしていると、(自分の側に非があろうとなかろうと)スポーツチームや芸能人のアイドルなどに希望を託し、感情移入し、いつしか狂信的な信者になっていくように思えます。そして、その個人が精神的に未熟であればあるほど、自分の感情を抑えるすべを知らないために、その狂信性や暴力性が高まってしまう。また、精神的な未熟さは自己決定することでの責任が生まれることを避けたがる傾向があり、自己決定する代わりに、応援する対象、信仰する対象の動向で、自分の決定もゆだねてしまうようになる依存性もあるように思えるのです。 宗教の信者と熱狂的なファンというのはその信仰する対象は異なっていても、類似点が多々あるように感じられます。 自分は、その後社会人として責任を伴う仕事をするようになっていくと、いつの間にか、広島カープへの妄信はなくなっていきました。ファンではあっても、広島の勝敗に生活を支配されるようなことはなくなっていきました。 今思うと、病的であったのかもしれません。 スポーツチームやアイドルが生活の大きな部分を占めている人の中には、かつての私のような人もいるのではないかと思います。少し冷静になって、自分自身を分析してみることも必要なのかもしれません。 |
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2026年7月9日(木) |
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蛍 |
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投稿:長野 央希 |
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魚沼の一部地域では、今シーズンにおいて、今が盛りとばかりに蛍が飛ぶようになっております。 私が蛍を見に行く場所というのは、主に二か所ありますが、そのうちの一つは、人里離れた山のふもとになります。 そこは、登山道の登り口の神社脇に川が流れており、その川を挟むように木々が生い茂っている場所です。 いつもはそこに到着するのは20時ころで、月でも出ていないと、辺りは真っ暗で歩き出すこと自体勇気がいるようなほどです。先日19時半ころに、そこに着くと、思った以上に空も明るく(とはいっても、ブルーグレイという感じで、真っ暗ではないというレベル)、いつもなら暗くて行動範囲が狭くならざるをえない状況であったものの、その日は少し山道を歩いてみる気になりました。 19時半というと、通常、まだ空が比較的明るいので、蛍の活動時間としては早い印象を抱いておりましたが、その日、辺りは明るくても、鬱蒼とした森の中は暗闇で、木々に鈴なりに蛍が光っているのが見えました。葉に留まって、光を点滅させているものや、ゆっくりと飛び回っているものまで、様々でしたが、これまで見てきた蛍の数をはるかに凌駕するほど多数の蛍を見ることができました。 その光景に圧倒され、しばし頭の中が真っ白になって、ぼーっと突っ立ておりました。はっと気が付くと、鼻先をかすめるように二匹の蛍が自分の周りを飛び交っておりました。更には頭をかすめるように浮遊しているものも二匹ほどいました。その瞬間は、蛍にとってみると、自分はそこら辺の石ころと同じような存在になっていたのかもしれません。自分の中で、「悟り」というのは自然と同化できた境地に達していることなのだと勝手に思っていましたが、まさに一瞬ではあっても、悟りの境地に達していたのかもしれないと嬉しくなっておりました。そんなことを考えていると、途端に蛍は自分の周りを去って、川面の方や森の中に思い思いに散って行ってしまいました。人間があれこれ考えだした瞬間に、すでに自然界の生き物からすれば、邪心を抱いている存在なのかも知れません。 蛍が飛んでいるのと、光を点滅させるのとで、どれほどのカロリーを消費するのだろう?蛍雪の功というのは、灯をつけることもできない貧しい環境下で、蛍の光や窓の雪明りで勉学に励んだという故事ですが、一体、何匹の蛍を捕まえてくると、読書できるほどの明るさになるのだろう? これらの疑問にこたえるべく研究しだすと、既にそれは科学になります。 一方で、蛍の光の神々しさに、手を合わせて拝むようなことがあれば、既にそれは宗教になりえるのだと思います。 科学と宗教は、ある意味で表裏一体なのだと改めて考えさせられました。 そんなことを考えている中で、蛍たちは幽遊と空を周回していました。 山道で立ち止まって、しばし過ごしていると、獣の歩く音が聞こえてきました。ハクビシンをよく見かける場所なので、おそらくはハクビシンであったと思いますが、はっと我に返り、熊に遭遇する前に帰らねばと帰路を急ぎました。 自然と同化できたら、熊にも一目置いてもらえるのでしょうか? |
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2026年7月2日(木) |
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『ドン・ジョヴァンニ』 |
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投稿:長野 央希 |
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新型コロナ流行時期は、自分が始終、発熱外来をしていたため、自分が感染源になることを避けるために、スポーツ観戦や音楽コンサートに行くことを自重しておりました。 ようやく、パンデミックも終わり、時間も経ちましたので、野球を見に行ったり、コンサートに行けるようになりました。 先日、モーツァルト曲目のコンサートに行ってきました。 都内、埼玉で働いている際には、しばしばコンサートとりわけオペラを聴きに行っていました。 自分はモーツァルトのオペラでは『ドン・ジョヴァンニ』が最も好きです。 最初のドイツオペラともいわれる『魔笛』は音楽的には素晴らしいのですが、話の内容がやや稚拙な感じを受けてしまうこともあり、ドン・ジョヴァンニのほうがより内容の充実度も考え、自分としては軍配を上げてしまいます。 ドン・ジョヴァンニ自体は、今の通念で行けば、下衆な放蕩者ということにはなるでしょう。手あたり次第といった感じで、女性に手を出し、邪魔建てした騎士長を殺してしまう。これだけでは、本当に屑野郎ということになります。 ただ、従者のレポレッロが歌うところで、ドン・ジョヴァンニが女性であれば、老若、美醜問わず、だれでも愛せるというような趣旨のセリフがあるように、ある意味、神のような心ともいえる気がします。やっていることは、ギリシア神話の最高神であるゼウスと同じようなものです。ゼウスもやたらと女好きで、多くの人間女性に手を出して、孕ませています。しかし、ゼウスは全能の神として尊崇を集めるのに対し、ドン・ジョヴァンニは放蕩者の悪人とされてしまう。 この対比は非常に興味深いもののように思われます。 やっていることは褒められるような類ではないが、少なくとも、ドン・ジョバンニには彼の美学や哲学があって、それを貫いている。そこに彼の格好良さが感じられます。しかも、彼は最終的に自分が殺した騎士長の亡霊に地獄に連れていかれることになりますが、死ぬ間際においても、彼は自分の生き方を悔いることはなく、死んでも自分の生き方を貫いたところに、究極の格好良さがあるような気がします。罪を重ねて、自分の犯した罪で裁かれるに際して、急に被害者面する人が度々見受けられますが、ドン・ジョヴァンニは全く被害者ポジションをとることもありませんでした。その死に様も、彼なりの美学を貫き通した結果と言えましょう。 また、彼の敵対者としてドン・オッターヴィオという品行方正な騎士の鑑ともいえるような貴族が出てきますが、正直なところ、昔から彼のアリアには、何か魅かれる要素が乏しいと感じてきました。 品行方正というのは一般的には価値の高いものではあるのでしょうが、きれいごとを言っているだけのように思えてしまうことがしばしばあります。 今の時代も、沢山の人が、現実に即さずに、きれいごとのような理想論を展開しております。机上の空論としての理想論というのは、その人の単なる自慰行為のようにしか見えないのです。しかも、時には大変有害な場合があります。 『ドン・ジョヴァンニ』という作品は、常識的と言われる一般大衆が理解しないものは排除しようとする人間社会において、その常識にとらわれず、無茶苦茶な言動ができる人こそが、人間の歴史を大きく変革できるものの、大概は、そういった英雄は、大衆の理解を超えていることから浮き上がる恐怖と、自分たちにはまねできないことをしでかす言動への羨望と同時に嫉妬から上げ足をとられるようになり、最終的に不幸な末路をたどることになるという、ある種の人間社会の普遍性を表しているからこそ、名作として今に至るまで残り続けているのではないかと思います。 |
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2026年6月25日(木) |
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最近の話題から |
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投稿:長野 央希 |
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魚沼で、それほど有名ではない蛍のスポットを二か所めぐってきましたが、一か所では3〜4匹ほど蛍が飛び出していました。もう一か所は未だその飛翔は見られませんでしたが、蛍を見ると、生きていて良かったという思いと、来年も生きていたいと言う思いを持てる気がします。ただ、いずれの場所も真っ暗で、人気もない場所であるため、色々な意味で怖いのですが、最近では熊に遭遇したらどうしようという恐怖も加わっています。昨日は、歩いていたら、ガサガサという音がしたので、クマか?と身構えていたところ、何者かが走り去っていく音がして、その後では辺りにははカエルの鳴き声以外しなくなりました。しばらくは動かずにあたりを見渡しておりましたが、特に何かが戻ってくる気配もないので、再び歩き出しました。物音からすると、それほどの大きな生き物ではなさそうでしたから、狸とかハクビシンとかの類だったのかもしれません。とはいっても、なかなかな恐怖を味わいました。 今週に入り、日本各所で食中毒の情報が目立つようになりました。 広島の福山で、宿泊施設において、ウェルシュ菌による食中毒の集団発生がありましたし、名古屋のコストコの総菜からO157の集団発生の報道もありました。 ウェルシュ菌はクロストリジウム属にの嫌気性桿菌ですが、その芽胞が高温処理されてから、緩徐に冷却される過程で、増殖していき、それを摂取することで、食中毒を発症します。あまり発熱や嘔吐は見られず、腹痛と下痢が主体となり、O157のように重症化することはまれではありますが、しばしば給食などで、集団発生するため、注意が必要になります。 O157は血便や高熱も加わり、溶血性尿素症候群(HUS)のような重症化する恐れもあり、時に致命的になりえるので、更に注意が必要となります。 その他でも、カンピロバクターと思われるような症例も徐々に増えつつあります。 食中毒予防三原則として「つけない、増やさない、やっつける」というものがあります。 つけない:手洗い、器物洗浄、消毒 増やさない:適切な食品の保存、保管。調理物の速やかな摂取 やっつける:加熱処理 殊に夏場は食中毒への注意を強化する必要がありますので、どうかご注意ください。 また、6/1に長野県で初の重症熱性血小板減少症候群(SFTS)の発生報告がありました。これはSFTSウイルスを保有するマダニに咬まれることで、発症すると考えられておりますが、少し前までは、基本的に温暖な西日本の感染症という認識でおりました。しかし、隣県の長野で出たということは、時間の問題で新潟でも出る可能性があるということです。新潟といえば、マダニ媒介の感染でいうと、ツツガムシ病(リケッチャ)が有名でした。最近はツツガムシの発症頻度というのも相当少なくなっておりますが、今後リケッチャとSFTSウイルスを同時に保有するようなマダニの個体が出てくるのかどうか注視していく必要があると思います。いずれにしろ、屋外で活動する場合、マダニにかまれないような防護をしておくことは重要といえましょう。 最後に、徳島大学で世界初の1型糖尿病患者に対して、TUFF−IPC(脂肪から分離した自己脂肪細胞由来の新しいβ細胞)の移植を行い、経過順調という発表もありました。非常に朗報といえます。従来、1型糖尿病は終生にわたって、インスリンの定期注射が不可欠なものでした。 大分前の話で、巨人軍にガリクソンという投手がいました。彼は一型糖尿病でインスリンを打ちながら、プレーしているというのは有名でしたので、子供ながらに大変なものだなと感心していた記憶があります。後年、医学生や医師となってから、ガリクソンを思い出すと、あんなにもハードな運動をしていて、低血糖の発作とかは起きなかったのだろうかなどと、違う視点で感心しておりました。 1型糖尿病は多くが若年で発症しますので、定期のインスリン注射による日常生活への制限も出てくるでしょうし、アスリートへの道なども断念せざるを得ないような人生への制限も加わってしまいかねない疾患でしたが、今回の治療によって、多くの患者さんがその恩恵に浴する可能性があります。この夏に2症例目の治療を行う予定とのことで、この治療がより早期に広く行われるようになることを願っています。 そして、今回の治療は世界初ということですが、この先も、日本がこうした野心的な研究や治療を世界に先駆けて行っていければ、大変素晴らしいことだと強く思います。 |
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2026年6月18日(木) |
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「学歴社会」に思うこと(4) |
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投稿:長野 央希 |
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より高い学歴を求めると、結果的には受験戦争に勝つ必要があるのが今の世の中と言えます。 受験という競争で、メリットは何か考えてみました。 一つは、忍耐力を身につけられる可能性があること。 更には、継続する力を身につけられることが挙げられると思います。また、受験に勝つという場合は、それこそ「己を知り、敵を知れば、百戦危うからず」という孫子の言のように、自己の正当な評価をし、受験する学校の試験問題を分析することにはなるので、(十分やれているのかは微妙かもしれませんが)冷徹な分析力が身につくかもしれません。 もっとも、これらの継続力や忍耐力、分析力という物は、恐らく長らくスポーツや音楽などで高レベルな活動をしている人たちは皆、身につけざるをえない物な気はします。そういった、運動や芸術をやり続けてきたわけではない人たちには、受験勉強が、鍛錬の場にはなるでしょう。 そして、最も大きい意義があるとすれば、挫折を経験させてくれることではないかという気がします。格の違う学校秀才であれば、受験においては全く挫折を経験しないかもしれませんが、そんな人は少数派でしょうから、多くは、色々な失敗や挫折を経験しながら、成長していくことになるでしょう。この挫折や敗北は、子供のうちに経験しておくことが重要な気がします。最近は、子供の運動会で、順位をつけるのはかわいそうだからと言うことで、勝敗や順位付けをしない風潮になっていると聞きます。運動会で勝敗を決めない様な配慮をする大人達は、何故受験は許容できるのでしょうか?運動会という特段人生に大きな影響を与えないような行事で負けたら、子供がかわいそうという心配をするくらいなら、もっと人生に影響を与えかねないような受験で勝敗がくっきり分かれるようなことに文句を言わないのは何故でしょう?その矛盾に対して疑問を持つべきでは無いかと思うのですが。子供に敗者の屈辱を味合わせたくないと言うことで、純粋培養すればするほど、子供の成長はむしばまれてしまう気がしてなりません。 そもそも、社会に出てからは、失敗や挫折の連続と言えます。その失敗を糧にしながら、色々工夫を凝らしたりして成功につなげていくのが成熟した大人と言えます。そこでは上司からの叱責や、他者からの苦言などはつきものでしょう。子供の頃に挫折を経験してこず、大人になって初めて挫折を経験した場合は、打たれ弱さのあまり、挫折感からの立ち直りが上手くできなくなってしまっている恐れもあるのです。 恋愛一つとっても、勝者と敗者が出てしまいます。仮にある一人の女性を三人の男性が愛したとして、その女性が一人の男性を選んだ場合、他の二人の男性は、少なくともその恋愛においては敗者となるのですが(その女性が大変な猛者で、三人とも同時に付き合ってしまえば、三人とも勝者で、三人とも敗者ということになる可能性がありますが)、その二人の男性は別の恋愛で負け続けるわけではありません。大人になるまで挫折を知らない人は、気持ちの切り替えがすんなり出来るのかどうかという懸念が出てくるのです。 そういう意味でも、学歴を得るための受験戦争には厳然たる勝敗が有り、ある種の社会勉強の側面もあるのかもしれません。 とは言っても、現在の学歴という人間評価の術は、非常に偏りのある物であり、見直されなくてはならないというのは、自分としての長年の思いであることは間違いありません。 人間性の評価という、最も難しい面をどうしたら適切に評価できるのか。その結果、適材適所で人々が生きていけることが、最も社会として目指すべき方向なのでは無いかと思います |
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2026年6月16日(火) |
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「学歴社会」に思うこと(3) |
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投稿:長野 央希 |
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今は、学生が勉強をするうえで、受験に利用する科目に比重を置く風潮が強いようです。受験戦争に勝つための戦略としては正しいのでしょうが、この点にも、違和感を感じます。 学うえで、最も重要な科目を考えると、数学と国語になるのではないかと思っています。 算数・数学は、論理的思考を身に着けるためのトレーニングになると思います。物事を論理的に筋道立てて考える根幹になると思っています。 そして、国語は書いてあること、話されたことを論理的に解釈するとともに、自分の施行を論理だてて話す・書くことのトレーニングになります。 英語などの外国語もより若いうちから始めることは重要とはいえ、外国語を学ぶ前に母国の国語力を軽視している風潮があるように思えてなりません。 今の世の中を見渡すと、相手の発言や記述の一部の言葉尻だけをとらえて、発言者の真意と全く違う解釈をしてしまっているケースを度々見かけます。ただ、こういったケースでは、国語力の欠如の場合もあれば、相手を非難するために恣意的に解釈をゆがめている人もいるかもしれないので、注意が必要ではありますが。 理科という教科は、個人的には小中学性の頃、苦手だったし、あまり好きではありませんでした。自分は手先が器用ではなかったので、時間内に何か実験機材を作るというのが苦手であったことも一つの理由ではありましたし、そもそも、植物や昆虫の観察など学校の時間割の範囲内では、ほとんど何も観察できなかったことも、つまらないと思う原因であったような気がします。大きくなってから、ある程度時間に余裕があるときに、自然を観察するようになると、自然の奥深さを垣間見ることもできて、とても面白いと思えるようになりました。理科の重要な意義は、自然現象を、まずは観察し、そこからいろいろと推論を立て、実証していけるようにトレーニングすることにあるように思います。理科を学ぶうちに、自然の途方もない神秘を感じられれば、自然の前の人間の小ささを実感でき、謙虚さを学べるのではないかとも思っています。 社会科の中で、自分は歴史が好きなので、歴史を学ぶ意義を考えました。歴史というものが人間の失敗の積み重ねであることを前提に考えてみると、失敗してしまう人間全体の共通の行動原理、思考原理があるのかどうか考察すること、民族や人種的な行動、思考原理の差異があるのかどうか学ぶこと、もし差異があるとすれば、その差は先天的なものなのか、環境による変化なのか考察すること こそが、重要な意義なのではないかと思っています。その考察をすることで、歴史的に繰り返す過ちを繰り返さなくなれるのかどうかという点にも非常に興味があります。 何を書きたいか、わからなくなりつつありますが、受験のための勉強という狭い了見から解放されて、学ぶことができる時代になればいいとは思うのです。何よりも、喫緊の課題は国民一人一人が国語力を高める努力をする必要があると強く思っております。また、受験とは関係ないという理由で、重視されていないように見える体育や芸術系の科目の方が、人間形成に大きな意味を持っているようにも思えるのです。 学歴社会の為に、教育が歪み、捻じ曲げられ、結果的に人間の成長に関して重要なことが忘れられないことが極めて重要と思います。 |
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2026年6月12日(金) |
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「学歴社会」に思うこと(2) |
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投稿:長野 央希 |
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今や大学の数が増えて、このままいけば大学全入社会になるのではという勢いであったりするようですが、その点も疑問を感じています。 そもそも、大学というものは研究する場所であり、専門的な高等知識、技術、資格を習得するべき場であるはずなのです。 就職するための予備校でもないし、見栄を張るための場所でも、仕事をしたくないから時間稼ぎとしているべき場所でも断じてないと思っています。 これをやりたいという具体的なヴィジョンがなくても、漠然としてでもいいからこういったことを学びたいという、学ぶことへの貪欲な意欲があるべきなのだと思っています。 やりたいことが見つからないから、とりあえず大学に行くというくらいなら、むしろ放浪の旅をした方が、はるかに有意義な時間が過ごせるのではないかとすら思っています。放浪しているうちに、自分を見つめ、自分が何者なのか、何がしたいのか見えてくるかもしれないですし、まるで知らない地域で、知らない人たちと触れあうことから得られることも大きいはずです。そこで、自分はこうした仕事をしたい、こうしたことを学びたいと考えて、大学進学を志すのは大いにありだとは思います。 また、昨今は就職に有利だから、ある大学群に行くというような人もいるようで、その大学なら学部は問わないため、入りやすい学部を選択して受験するというようなこともあるようですが、それも本来の大学の在り方から大きく逸脱しているように思えてなりません。 こういった考えは、結果的に大学の価値を貶めていくことになるのではないだろうかと思っています。 そもそも、大学卒というものになぜ価値を置くのか、わからないのです。 いわゆる良い大学を出ていても、愚かな人は愚かですし、大学に行っていなくても、賢い人は賢いのです。 戦前の帝国陸、海軍の高級軍人は基本的に学歴エリートでした。しかし、彼らは結果的に亡国の危機に瀕するまでに国を傾かせてしまった。 日本の軍が最も有能だった時代は、恐らく日露戦争の頃であったと思います。この時代は大本営や軍のトップたちは、陸軍士官学校や海軍兵学校を出ていないか、出ていたとしても、ごく初期のころの人たちでした。そして、司令官を支える参謀たちは陸、海軍大学を出ている秀才たちでありました。学歴秀才というのはとかく優等生的、官僚的になりやすいのだと思うのですが、発想に自由さが失われやすいように思えます。その点で、叩き上げの人がその上官でいることで、臨機応変な対応、より自由な発想を生み出しやすかったのではと思っています。叩き上げと、学校秀才がうまく融合する形で、日露戦争の勝利につながっていったように思えます。 その後は、基本的に叩き上げという人たちがいなくなり、皆が士官学校や兵学校を出た学歴エリートたちで占められるようになっていった。これが軍というもののシステムの柔軟性を奪い、硬直化していく。官僚的になり、しばしば党利党略に走り、国家よりも自分たちの組織を優先させてしまった。エリート意識が高じて、下級士官やその下の兵士、国民の命を蔑ろにした。時に、そのエリート意識が自分たちは何をやっても許されるという傲慢さを呼び、それが大本営の命令すら無視し、独断専行で事を起こし、下剋上のような気風を生んでいった。 昭和の軍部といいうものは、机上の空論で、すべて知った気になっているよう単なる学歴エリートというものの危険性を垣間見せられているような気がしてならないのです。 今の日本も、何か似たような雰囲気を感じてしまうのは自分だけでしょうか? 代替となる「人の評価」方法というものがすぐには思つかないのですが、学歴にかわるような人間評価基準というものを新たに構築していくべき時なのではないかと思っています。 |
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2026年6月11日(木) |
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「学歴社会」に思うこと(1) |
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投稿:長野 央希 |
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この数年、友人のお子さんが高校であったり、大学であったりと、受験戦争に突入しているという話を聞くことが増えたため、自分も最近の受験事情がどんなものなのかyou tubeで受験指導、相談系の番組をみたりします。面白いもの、ためになるものもあれば、疑問を感じるものもあります。 気になるのが、学校の勉強ができる、いわゆる高偏差値の生徒に、先生含めた大人が医学部受験を薦めるケースがあることです。 医師という仕事を舐めているのではないだろうかとすら思えてしまうことがあります。確かに学校の勉強ができると、受験戦争に勝って、合格切符を手に入れることはできるかもしれません。その結果、親は鼻が高いと感じられるかもしれないし、学校や塾は合格実績を上げることができるかもしれません。しかし、当の子供本人は、本当に医師に適性があるのかという問題が残ります。臨床医では、患者さんやその家族とのコミュニケーション能力も問われますし、何よりも、医療というものが多大な自己犠牲の精神を求められるべきものであるはずだからです。勉強ができるというだけで、そういった覚悟や適性もないのに医師になっていく人が増えるということは、いかがなものでしょう?臨床医の適正もないまま医師にはなれてしまうのが実情ですが、そういった医師が増えれば増えるほど、医師という物への信頼、ひいては医療という物への信頼が揺らぐことになりかねないのです。 医学部に行けば、そのような覚悟や適性は身につくだろうと考えがちですが、必ずしもそんなことはないのです。学校秀才が医師に向いていると考えるほうが、違和感を感じます。 医師に適性がないにもかかわらず、学校の勉強が出来るというだけで医師になる人が増えることは、人間の医師への不信を助長し、結果的に医療のAIへの置換を促進させるかもしれないし、何より当の本人が不幸な可能性があり得ます。 個人的に、医師という仕事は、自分や家族のプライベートよりも業務を優先させるべき時があると思っています。働き方改革とかいろいろといわれる時代ですが、しばしば医者は自己犠牲を払わねばならない仕事なのだと思っています。それが人の命を扱うということなのです。 私は、学生としても医師としても、決して褒められるような存在ではなかったですし、優秀な実績を何一つ残してきてはいませんので、偉そうなことを言えた立場ではないのですが、それでも10年以上は、自分の心身を削って、仕事してきた自負はあります。父親の死に目にも猫の死に目にもあえませんでした。 医師も軍人も、まったく方向性は違いますが、自己犠牲を払うべき、職務に体を張るべき仕事なのだと思っていますし、これからもそうであるべき業務と思っています。だからこそ、自分はいつまでも医師という仕事を継続できるのか不安はあります。 せめて、奉仕の精神と、時には自分のプライベートは犠牲にする必要があるという覚悟と情熱を持てる人が、医師を志してほしいと思うし、大人たちも、子供一人一人の適正も考えて、進むべき道をアドバイスしてあげてほしいと強く願います。 |
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2026年6月11日(木) |
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佐潟 |
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投稿:長野 央希 |
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最近は佐潟の上潟、下潟をぶらぶら歩くのを楽しみとしております。 佐潟の水面に目をやると、メダカの群れの魚影や薄青紫色に輝く蜻蛉の飛んでいる光景が見られます。 一方ではウグイスやトンビやキジの鳴き声が響き渡り,佐潟の上空にタカやワシが旋回しているのを見かけると、何の獲物を狙っているのだろうかと考えたりしています。 また、沢山の草木が茂っておりますのも面白いです。一ヶ月前にはシナフジが美しく咲いておりましたが、今はもはや散ってしまっております。代わりに群生しているシロツメグサやヒメジョオンが咲き乱れておりました。 こうした様々な野生の動植物を観察していると、飽きることがありません。 同時に何カ所にも渡り「スズメバチ捕獲中」と言う罠のような装置がしかけられているのが目にとまります。クマバチが多数、頭上を飛んでいるなと思っていると、日向の草むらに一匹、かなり巨大なスズメバチを見つけました。幸いに、スズメバチのテリトリーを侵す様なことも無いため、追いかけられることもありませんでした。しかし、中々スリリングではありました。 下潟の法に行くと、ほとんど人とであうことも無いため、野生の昆虫からしたら、のびのび暮らせるのかもしれません。 可能だったら、佐潟の水中に住む微生物を顕微鏡で観察したい者だと思ったりもします。 季節の移ろいを、実感できるという点でも、非常に素晴らしいスポットですので、これからもこの自然を守り続ける重要性を感じます。 |
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2026年6月8日(月) |
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広島東洋カープの伝統 |
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投稿:長野 央希 |
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先週、広島東洋カープの二軍がオイシックストの交流戦で新潟に来ておりましたので、ハードオフエコスタジアムまで観戦に行ってきました。球場に着いたのが19時半くらいで下の絵、既に試合は5回迄進んでおりました。その時点で1対1という、一見すると中々な好ゲームのような展開でしたが、実際のところでは、広島の側で全く点が入る予感がしなかったというのが正直な感想でした。オイシックスの投手陣の好投はありましたが、広島の打力や攻撃面の作戦の問題があるように思われました。少なくとも、オイシックスの方が、エンドランを試みたりと、何らかの策を講じているのが伝わってきましたが、カープでは代走が出ても、全く盗塁する気配すらなかったように、攻撃が無策なのではないかとすら疑いたくなってしまいました。観客席から「走って良いぞ」という応援なのか、文句なのか分からないようなかけ声がかかる有様でしたから、私に限らず、相当数の人がフラストレーションをためていたに違いありません。カー王の二軍は高信二監督なので、カープ伝統の機動力野球をたたき込まれた世代であるはずですが、全く機動力を駆使しないのはどうなのだろうと、怒りすらこみ上げてきている中で、結局オイシックスが追加点を取って、勝利したという結末でした。 二軍というのは基本的に若手のアピールの場であるはずなので、どんどん走ったりと、溌剌としたプレーで存在感を示さねばならないはずなので、ますます、カープの行く末を案じずにはいられません。 確かに、かつてはカープが万年Bクラスの時期がありましたが、少なくとも闘うという姿勢は強く感じることがで来ました。 私が一番好きだったのが1996年の頃のカープです。この年は夏まで首位を独走していた物の、結局巨人に優勝をさらわれた年でした。 あの頃は、捕手 西山、一塁 ロペス、二塁 正田、三塁 江藤、遊撃 野村、左翼 金本、中堅 前田、右翼 緒方と言うそうそうたるメンツで、全員が長打も打てると共に、ロペス以外全員が足を使えた打線で、「赤い恐怖」とか「ビッグレッドマシーン」と言われていたのが大変懐かしく思い出されます。そんなわけで、カープ打線にはいつもわくわくしていたものです。何より、当時の三村監督が好きだったのもあります。 鬼のような練習に裏打ちされた闘う集団でした。正に赤ヘル軍団でした。 『仁義なき戦い』で、小林旭さんの台詞として「広島極道は芋かもしれんが、旅の風下に立ったことは一遍も無いんで。神戸の者言うたら、猫一匹通さんけえ、おどれら、よう覚えとけや」というのがありましたが、小林旭さんの渋い声と相まって、しびれるほどかっこいいと思います。かつてカープにはこの意識があったような気がしてなりません。 今のカープはどうでしょう?チームは家族というのは結構ですが、和気藹々が、馴れ合いのようになってしまっているように思えてなりません。 「広島に乗り込んできたチームは、ただでは済まさない」くらいの姿勢を見せてほしい。 ぬるい試合なんぞ、もううんざりなんじゃ と言うのが本音です。 カープの伝統である、闘う姿勢と機動力を早急に取り戻してほしい。 その為には首脳陣の一新も考えてほしい。 切に願います。 |
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2026年6月1日(月) |
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投稿:長野央希 |
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魚沼地域で、月一回ながら、訪問診療に携わらせていただくことになりました。患者さんの疾患や状況もさることながら、それぞれの家庭の状況なども千差万別であり、そのため、それぞれのケースで求められる医療も異なり、提供する医療サービスも、それに応じて変化するという意味で、非常にオーダーメイド的といえると思います。 勿論、在宅で行える治療は限られており、いわゆる最先端医療を行うような意味でのオーダーメイド治療とは異なります。 それでも患者さんや御家族の状況によって、そのニーズに丁寧に対応する必要があり、究極のオーダーメイドともいえるかもしれません。 患者さんが、住み慣れた場所で、少しでも長く過ごしていただけるように、医療者は努力する必要があることを、改めて認識させていただきました。 当院でも、徐々に訪問診療などを行っていきたいと考えておりますので、宜しくお願い致します。 |
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2020年7月3日(金) |
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投稿:長野央希 |
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自粛解除後、都内では昨日も60人の感染者が判明している。 また、米国では、さらに膨大な感染者数に上ってきている。 米国での陽性者の中での重症者の占める割合がどうなっているのか、どうなっていくのかが注意すべき点ではあるが、少なくとも、3〜4月の頃の状況のような医療崩壊の危機のような状況にはなりにくいのではないかと考えている。今回の新型コロナによる重症化に至る機転が、より分かってきているためである。キーワードはサイトカインストームとDICということになろう。 重症になりやすいタイプの人の傾向もわかるようになっており、そういった方々で重症化しそうな兆候を早めにとらえられることで、DIC治療を早期に行ったり、適切な免疫抑制療法を行い、重症化の芽を摘むことがしやすくなってきていると思われる。 一方で、WHOやCDCは、当初新型コロナに対してのステロイド治療は推奨されないという論調であったが、ここにきてデキサメタゾンは死亡率を低下させるというような報告も出てきており、どちらが正しい見解なのかという問題もある。自分も、短期間ながら、新型コロナ治療にあたってきたため、確実に新型コロナの肺炎でステロイドが一定以上の効果を有していると実感しており、相当数の臨床医は、経験的にステロイドの有効性を把握しているはずである。(勿論、安易にステロイドなどの免疫抑制治療を行うべきではないし、コロナに細菌性肺炎が合併しているような場合では、当然ステロイドは控えるべき状況にもなるが) そして、実際のところ、WHOが推奨していなかろうが、必要に応じ、ステロイドを使ってきていたと考えられる。 しばしば、日本のマスコミは欧米の医療をほめ、日本の医療に問題があるような報道をされているが、2009年の新型インフルエンザの時も然りであったように、毎年、米国ではインフルエンザで1万人を超えるような死者が出るのである。要するに、ごく一部の、高額な保険を支払っている富裕層が、超一流で最先端の医療を受けられるものの、多くの国民は、さして褒められた医療すら受けられていないという現実があるのである。 国民皆保険の日本では、おしなべて、平均的でそれなりに良質の医療を受けられていることを無視して、日本を貶める報道というのは、明治以来の日本人の西洋文明に対するコンプレックスを如実に表していると言えよう。 安倍首相の言うジャパンモデルが、なにを指しているのかは判然としないが、少なくとも日本の医療を自信をもって世界に発信していくことも重要なのではないかと思う今日この頃である。 |
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2020年6月29日(月) |
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現在、魚沼と新潟市を週一回行き来しておりますが、この時期の魚沼での楽しみの一つはホタルです。 小出の市街地からジョギングで行ける距離、あるいは車で五分圏内のところに、隠れたホタルのスポットがあります。 勿論、観光地のようなわけではないので、ホタルが乱舞するような状況とは違いますが、それでも、淡くほのかなホタルの光が、はかなげな美しさを放っています。 昨日も、二か所見てまいりましたが、涼しげにホタルが飛んでいました。そうかと思うと、急に猛スピードで飛んだり、点滅がせわしなくなったりと、見ていて飽きませんでした。 ホタルの光は、色々なものを削ぎ落した、シンプルな美であると思います。 翻って、人間界では、常に宗教や人種、主義主張で、小競り合いが繰り前されています。いたずらに情報があふれているために、その情報におぼれて、結果的に本来の人間のあるべき姿から逸脱したり、人間不信に陥ったりしているように思えてしまいます。 もっと、人間もシンプルに生きれば、より平和共存できるのではないかと思いながら、ホタルの光を目で追っていました。 今年は様々なことがあって、人々も疲弊し、心も荒みがちになっていることもあり、ホタルから、そんなことを考えてしまいました。 |
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2020年6月25日(木) |
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投稿:長野央希 |
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日本ではコロナの発生件数が減少、落ち着いてきたかのように見えておりますが、世界的には依然として、猛威を振るっております。 WHOの報告では、一日での発症者数が過去最多を更新したとのことです。 ひとたび、規制が緩和されると、なし崩し的に、緩和すべきでないことまで、緩んでしまうというのが人間社会の常ではありますが、気のゆるみも含めて、感染を拡大させている可能性があります。 高温で多湿の環境では、ウイルスの脅威が減ることも期待されておりましたが、パンデミックとなっている現状では、それも期待できないというのが専門家の大方の見方となっている模様です。 殊に米国の連日のデモ、集会は、一層感染を困難なレベルにしているといえましょう。米国政府はコロナ感染対応においても、人種の分断という問題においても、既にイニシアチブが取れていないように見える状況で、はたして、コロナ感染を終息に向かわせるような方策がとれるのか、甚だ疑問です。米国での感染は、少なくとも第二波ではなく、第一波が持続している状態といえます。この状況が遷延している間は、世界中に感染を波及させる恐れが高いと思われます。 新潟県でも一か月ぶりに感染者がおられたようですが、報道によるとやはり海外渡航歴がある方のようです。 米国をはじめとした世界情勢を鑑みると、当面海外との往来は今もなお控えるべき段階であろうと考えられます。 日本では、コロナに感染したとしても、大半は軽症とはいえ、一部では重症化するケースがあることも間違いなく、君子危うきに近寄らないスタンスが重要と言えると思います。 |
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2020年6月22日(月) |
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投稿:長野央希 |
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私は広島東洋カープのファンですが、6/19にようやく2020年度のプロ野球が開幕する予定で、わくわくしてきているところです。 ただし、今年は広島の話題としては、もっと大切なことがあります。 北別府さんが成人T細胞白血病で現在、末梢血幹細胞移植を受けて、闘病中であることです。 私は血液内科診療に携わってきただけに、マスコミで報道されるような血液疾患に対して、注意を払ってはいましたが、元広島の往年のエースの件となれば、より敏感になりました。 ブログを見ていると、息子さんからの末梢血幹細胞を移植して、副作用などで難儀をされているようです。 北別府さんといえば、投手王国と呼ばれた広島の絶対的なエースともいえる方でした。大野、川口、金石など、ストッパーで津田、野手でも高橋慶彦、山崎、長内、重鎮として山本、衣笠などなど今でもわくわくするようなメンツがそろっていたころのエースでした。 それだけ鍛え上げた肉体でも、血液疾患に対する抗がん剤治療や骨髄移植治療はつらいものであることは間違いないと思われます。 自分も、血液疾患での化学療法など行うたびに、治療の副作用や合併症で苦しむ患者さんの姿を診て、時には心苦しい思いもしてきました。そんな中で、病気が寛解、あるいは治癒に至るような患者さんの姿を見て、心から喜び合えたものです。 北別府さんも、長い闘病生活とはなろうと思いますが、一刻も早くお元気になられることを切に願います。 山本浩二さんも闘病生活をされておられるようですが、頑張って克服していただきたいと思います。 二人のためにも、今年はカープが優勝してもらいたいと期待しております。 |
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2020年6月17日(水) |
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投稿:長野央希 |
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昨日、一昨日と都内での新型コロナ陽性者数が50人近くと増加しております。これは、いわゆる「夜の街」で働く人の集団検査の影響もあろうと思われます。 一方で、米国では人種差別への反対デモが全国に広がっており、これによってコロナの感染が再度燃え上がりはしないかと懸念せざるを得ない状況です。また、北京でも再度感染者が増加に転じております。 短期間ながら、コロナ診療に携わったものとして、新型コロナは大半が軽症であるか、無症状であるため、(少なくとも日本では)不必要にパニックになるべきではないと考えます。ただ、高齢者、癌のある方、若くても男性、肥満、糖尿、喫煙(肺気腫)などの条件がそろうと、一定の割合で重症化する印象を受けましたので、決して油断していいものでもないと言えます。 無症状のコロナ陽性者から、このような重症化の危険をはらむ人たちに感染が拡大する可能性を常に考えておく必要があると考えられます。 新潟は幸い大きな流行に見舞われずにここまで来ておりますが、これだけのグローバル社会では、第二波の流行も対岸の火事と受け流すわけにもいきません。我々、医療者は行政とも連携をとって、第二波への対策を練っていく必要があると改めて感じております。 |
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2020年6月16日(火) |
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当院の近くにあるスポーツセンターも、コロナの影響で、一時休業されておりましたが、ようやくジムも含めて再開されております。拝見しますと、多くの中高年の方々が様々な運動にいそしんでおられます。非常に良いことだと思います。 昨今は、筋肉量の減少からくる身体機能の低下(サルコペニア)が話題になっており、その予防のために適度な運動、適切な食事が極めて重要と言えます。 これまでは医療といえば、病気を治すことに主眼が置かれておりましたが、これからはいかに病気にならないようにするか、あるいは大病になるのを未然に防ぐかという予防の医療がより大切になってくると考えます。 そういうことも、患者さんとともに考えていきたいと思っております。 尚、これからの季節、運動中の脱水、熱中症にはくれぐれもお気を付けください。 |
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2020年6月13日(土) |
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ブログを始めました。 |
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投稿:長野央希 |
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急激に真夏のような天候になってきている今日この頃。 全国的にも、ようやく新型コロナ感染が収束に向かいつつあるのかと期待する日々です。幸いに、新潟県は大きな流行のうねりにもまれることなく、本日に至っております。 私は、4月末から5月いっぱい、北埼玉の病院で新型コロナ診療のお手伝いをしてまいりました。関東もひとくくりにはできず、埼玉も大宮や川口など南部と、熊谷などの北部では、大分感染者数も異なっておりました。マスコミ報道で、コロナの恐ろしさ、悲惨さが盛んに取り上げられておりましたが、確かに重症化した場合は厳しい経過をたどりえますが、多くの場合は、軽症であったり、無症候性であったりします。 この疾患に関しては分からないことが多い点や、治療法が確立されていない点で、人々の恐怖が増幅していってしまいました。このこと自体は、ある程度やむを得ないことではありますが、過剰にマスコミが恐怖をあおった感が否めません。 手洗いをする、外出時にはマスクを着用する(自分の感染予防というよりは、自分が感染していた場合に周囲に感染を広げない意味でも)など基本的な注意をしつつ、正確な情報のもとに、適切に怖がりながらも、節度を守って生活を楽しむことが重要と感じました。 我々医療者も、マスコミも、いかに正確な情報を、皆さんにお伝えできるかが大切であり、それこそが本来のインフォームドコンセントのあるべき姿なのかもしれないと、改めて考えさせられております。 毎日とはいかないと思いますが、思うことがあれば、ブログを更新させていきたいと思いますので、今後とも宜しくお願い致します。 |
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2020年6月10日(水) |