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 プロ野球開幕
投稿:長野央希
あまり明るくないニュースの多い昨今ではありますが、今年も、いよいよ明後日からペナントレースが始まろうとしています。それに先んじて、昨年中止となってしまったセンバツ高校野球が始まり、連日の熱戦が繰り広げられています。やはり若者が真剣に一つ一つのプレーに全力を尽くす姿は、良いものだと思わされます。(とはいえ、平日に高校野球を見ているのが難しいのが残念ですが)
プロ野球も、高校球児に負けないような熱い、そしてこれぞプロと思わせるような美技を見せてほしいと思います。
さて、私が38年応援を続けている広島東洋カープですが、セリーグ3連覇を遂げてから、二年連続Bクラスという苦汁をなめさせられてきました。今年も、優勝まで手が届くのかというところではありますが、大瀬良、野村両投手が、昨年のような事態にならなければ、森下投手と三本柱として、ローテートが回せますので、それなりに投手力再建ができると思っています。個人的には床田投手に頑張ってほしいところではあります。また、昨年ドラフトで、投手ばかりをとりましたが、その中でも即戦力になりそうな人が複数いるのが、楽しみな所です。
左腕の先発で計算できる人材が欲しい(ジョンソンの穴を埋められるような)のと、中継ぎ・ストッパーで適材が出てくれることが優勝の絶対条件ではあろうと思います。
一方で、野手は色々と楽しみではあります。菊池、田中、相澤の後継者となりそうな若手も、徐々に台頭してきていますし、クロンという新外国人選手も日本の水にあいそうな気もします。堂林選手が昨年と同様の活躍をしてくれれば、かなり選手層の厚い打線も組めるでしょう。鈴木・西川がクリーンナップで成績を残せれば、中盤以降で不安の残る投手陣をバックアップできるでしょう。
また、広島らしさとして、守備力・機動力を向上させていただきたいと思います。昨年は菊池選手の無失策という信じがたいような記録もでましたが、他の選手たちも、厳しい練習を経て、鉄壁の守備陣を形成してもらいたいと思います。そして、機動力を発揮して、相手をひっかきまわし、打線が調子を落としていても、足で点をもぎ取るようなそつのない野球を展開していただきたいものです。
河田コーチが復帰されたのも心強いところですが、佐々岡監督が二年目を迎え、自分の色をどのように出していくのか注目です。投手出身ですから、投手王国再建を期待したいです。
後は、優勝していたころの黒田、新井のような心の支柱となれるベテランがいてくれると安心ではあり、長野選手辺りがそうなってくれるといいとは思っています。
少なくともAクラスには当たり前のようになれるチーム力はあると思います。
頑張れカープ

2021年3月24日(水)

 地震
投稿:長野央希
3/20に宮城県沖地下59kmを震源とするM6.9の地震がありました。新潟市内も震度2〜4と幅はありながらも、比較的長く揺れを感じるものでした。
その時間、私は酒を飲んでいましたので、最初はもう酔っぱらったかと思っていましたが、それにしては、電球なんかも揺れているので、妙だなと感じていたところ、テレビの緊急の地震速報を見て合点がいった次第でした。
時間帯が18時過ぎで、食事を作ったりと、火を扱っている家庭も多かったでしょうから、地震の規模によっては、大火災に発展するような危険もあったので、そうならなかったことは不幸中の幸いでした。
ただ、いずれにしろ、東日本大震災の発生した3月の発生であることからも、岩手、宮城、福島の三県の方々は、不安や恐怖が頭をよぎったのではないでしょうか。今回は津波注意報も出ていましたので、尚更のことです。
2/13にも福島沖を震源とする地震があり、いずれも東日本大震災の余震であるということです。確かに、地球規模で見れば、10年などというのはほんの一瞬のようなものなのかもしれませんから、余震が未だに起きていても何ら不思議ではないのでしょう。
それにしても、最近は地震活動が活発化しているような気もしますので、日本全国で地震などへの災害に対しての注意を怠らないようにする必要があろうと思います。我々はいつ被災の当事者になるかわからないという意識を持っていることが重要なのだと思います。
また、地震とは別に宮城県では、新型コロナ患者数の増加を受けて、独自に「緊急事態」宣言を出すような報道を見ましたし、福島でも病院での170人という大規模なクラスターが出たとのことで、山形県でも徐々に患者数が増加傾向にあるということです。地震に加えて疫病による不安も重なり、地域の方々の不安も募っているものと思われます。どうか気をしっかり持っていただきたいと思います。
そして、新潟でも対岸の火事ではないことを肝に銘じる必要があります。いつ何時、天災や疫病の流行などのトラブルに直面するかは分かりません。

それにしても、現在の状況は、中世において全世界的にペストが大流行した時の状況を想起させられます。14世紀のペスト流行時は、インドなどで大噴火があったりと、世界規模に天変地異が起きていました。歴史を学ぶことで、似たような事象に備えることも大切な人類の知恵なのではと思っています。


2021年3月22日(月)

 東日本大震災(8)
投稿:長野央希
二回にわたり、救護班に参加できたことは、今でも自分にとって貴重な経験でした。私は、他に誇るべきものは何一つないと言っても過言ではありませんが、この時に救護班に参加できたことは私の唯一の誇りです。
ここで、その時の経験を踏まえて、自分の考えや思いを書いておきたいと思います。
(1)当時の私の上司の一人は、震災の時に「自分は痔だからウォッシュレットのないところにはいけないな」と笑いながら話していましたが、平時では十分笑い話にはなります。やはり関東の人からすれば、他人事のような面があるのだと痛感しました。しかし、日本は災害大国ともいえるほど、どの地域も何らかの天災による被害を受けかねないことを肝に銘ずる必要があります。いつ何時、自分が災害の当事者になるかもしれないという思いを持つべきと思います。
(2)災害の種類によって、その被害内容は大きく変わることを理解しなければなりません。阪神大震災の時は地面の陥没、家屋の倒壊や火災により、被害が拡大しましたが、東日本大震災では津波による水害が主たるものでした。前者では整形外科的な外傷が多かったはずですが、後者では、そこまで重症の外傷は多くはなく、むしろ持病の増悪や溺水や海水の誤嚥による誤嚥性肺炎などへの対応が重要であったと思われます。
従って、災害の種類に応じた、救護班の医療準備も少しづつかえていく必要があろうと思われます。
(3)災害の予防策を講じて、それに応じた前準備をしっかりしておくことが重要であることを再認識しました。
石巻日赤では、大地震が来ることを想定して、対策を練っていた模様です。もし、それがなければ、恐らく震災直後の医療体制は崩壊していただろうと思われます。それでも、対策を講じた、想定以上の水害であったことも事実でしょう。
まず、対策を講じる場合に、自分のいる地域が水辺なのか、山間なのか、住宅が密集している地域なのか等で、起きうる被害を想定する必要があります。更に、想定する場合は、最悪の事態を考える必要があるのだと思います。昔から、日本人は最悪の事態を考えて対策を練ろうとすることの下手な民族ではありますので、自分たちの国民性も考えていく必要があると思います。
(4)避難所では、たいていの場合上下水道とも機能が麻痺している場合が多く、その環境は感染症の温床になりやすいということを認識しておく必要があります。3月の時点では、万が一避難所でインフルエンザが出れば、一気に蔓延してしまうという懸念がありました。一方で、5月の時点では、大分日中の気温が高くなっていましたから、食中毒など腸炎を起こしやすくなるのではないかという不安がありました。もし、現段階で、何か天災があれば、新型コロナの対策をどうするかという問題を考える必要があります。
(5)避難所での生活は非常にストレスフルな環境です。ほぼプライバシーもない状態です。震災直後は連帯感のような感情があって、支えあえていたものが、時間の経過とともに、共同体内での不協和音も出てきてしまいかねません。また、震災で負ったトラウマなども尋常なものではないと言えます。そういった意味でも、心のケアは極めて重要であると言えます。
(6)デマや風評被害への注意う。災害などの社会的混乱が生じるような状況下では、その被害に対する怒りのはけ口として、スケープゴートにされるような人たちが出てきます。また、完全に不確かな情報でも、まことしやかに情報が共有され、デマが真実のような様相を呈してしまう場面もあります。昨今ではSNSなどでデマであろうと各種の情報が拡散されてしまいやすい時代でもあり、混乱した状況下でも、いかに冷静に情報を取捨選択する重要性を認識する必要があります。

「天災は忘れたころにやってくる」という寺田寅彦の格言があります。
東北の震災以降も、千葉や九州など各地で様々な天災被害に見舞われました。平時にこそ、こういった不幸な教訓を再度考えるべきなのだと思います。


2021年3月13日(土)

 東日本大震災(7)
投稿:長野央希
釜石に行った際は医療的な救護と同時に、復興支援として、地元の経済的な支援も一つの目的となっておりました。
ですから、5月の救護班は海からほど近いところにあるホテルを宿舎としていました。料理もおいしく、大浴場もあって、とても快適に過ごさせていただきました。そのほかにも、経済的な支援という形で、釜石の土産物屋や地域物産展のような市場で買い物が奨励されましたし、昼食は地元の飲食店を利用してきました。おいしい海産物が非常に印象に残っております。
また、時間的な余裕があるときには、日赤として借りているレンタカーを使用しても良いことになっていましたので、研修医を連れて、釜石市街地を回ってみることにしました。3月の段階とは異なり、他の日赤病院の救護班とも親しくなったりしましたから、そういった人も市街地をめぐりたいと希望してきたため、一緒に市街を回ってきました。私は非常に運転が好きなので、知らない場所をドライブするのがとても楽しみなのですが、この時はとてもそういう気分にはなれませんでした。
海のそばでしたから、当然海の香りが強いのですが、併せて何か生臭い匂いや、ところどころによっては腐敗臭のような匂いが漂っていました。市街地と思われる地区は、廃墟やがれきの山となっており、震災前の状態がまるでうかがい知れないような光景でした。そして、それぞれの廃屋には赤丸や緑丸がかかれており、どうも御遺体が発見されているか否かを示していたという話を聞きました。家の外装は完全に破壊されているのに、内部の机が残っていたりというところもあり、車を降りてみると、机にひっかかるような形でランドセルがおいてあるのを見つけ、そのランドセルから教科書らしいものが見えたりしていましたので、つい最近まで普通の生活の場だったことを改めて認識させられました。
釜石市街には新日鉄の工場にかかる陸橋がありましたが、そこには津波で流されて、陸橋に衝突して乗り上げた状態の船が未だに残されていましたし、海沿いの堤防では、巨大なタンカーが堤防に乗り上げて、動きの取れなくなっているような状況も見られました。
雨が降ると、依然として冠水するようで、一部の道路は雨の後は完全に浸水していたりしました。巨大な鉄橋が柱の根元のあたりで、完全に折れて倒れているような光景も見てきました。周りのすべては流されつつも、神社の鳥居のみ残っているという場所も見てきました。
震災から二か月。好転している面もある一方で、復興への険しい道のりは果てしなく長く続いていくというような暗澹たる思いを抱いた三日間でした。

2021年3月13日(土)

 東日本大震災(6)
投稿:長野央希
私は、2011年5月末に再度日赤救護班として、岩手県の釜石に行きました。
この時期には、新幹線含めた鉄道の運航が再開しているところも増えてきておりましたので、電車で埼玉から釜石に行ってきました。宮沢賢治ゆかりの土地ということもあり、駅には銀河鉄道にちなんだようなモニュメントなどがありました。釜石につくと、駅構内は一部工事中であったと記憶しておりますが、通常業務が遂行されておりました。
そこから日赤の救護班が集合しているプレハブのようなところに行き、業務連絡や任務の確認を行いました。流石に、3月の時点と比べると、大分切迫している感じは無くなっていました。二日間にわたりいくつかの避難所を回診するという任務を与えられました。市街地からそばの避難所は小学校の体育館を利用していたりしており、一方で、山間の避難所では、公民館や神社の社殿が避難スペースになっているところもありました。
震災後2か月経過しておりましたので、地域の基幹となるような病院は業務を再開しているところが増えておりました。そのため、3月のような混乱したような診療風景はほとんどなくなっておりました。基本的には避難所で風邪を引いた患者さんの診察などが主体でしたし、より重要であったことは心のケアであったと言えます。日赤としては心のケア班を派遣しておりましたから、救護班とともに心のケア班が同時に働いておりました。
ちなみに、2回目の救護班の際には、自分についている研修医にもついてきてもらいました。災害救護というものを経験するということは、医師としても非常に重要な経験であろうと考えられましたので、研修担当の責任者である副院長にお願いしていました。彼は、避難所で、色々な人の話に耳を傾けてくれましたし、ハチ刺されなどの患者さんの処置も手伝ってくれて、大いに助かりました。
また、釜石の医師会の方などとの打ち合わせのために公民館に行く機会がありました。この打ち合わせ自体は業務連絡程度で、すぐに終了しましたが、むしろ、その公民館のエントランスホールで、まだ消息の分からない被災者の方々の人探しの張り紙が多数あり、とてもやりきれない思いがしました。とりわけ、二歳の子供を探しているという張り紙には、涙が出そうになりました。2歳の子供が二か月以上も親なしで生存している可能性は極めて低い状況で、その子供もかわいそうに思うとともに、その親の心情たるや、計り知れない苦悩に満ちた日々を送っていることが想像され、言葉に出来ないような虚無感を感じました。
実際に、その母親と思われる方を避難所で診察しました。症状は不眠でした。基本的には多少の不眠で安易に睡眠薬を処方することは望ましくないのですが、このようなケースでは少しでも不安や焦燥を抑えてあげられるような薬剤が必要であろうと判断し、抗不安薬を処方しました。

2021年3月13日(土)

 東日本大震災(5)
投稿:長野央希
石巻を去り、埼玉へ向けて帰路につきました。東北道を上っていく中で、白河インターであったか、どこか失念しましたが、食堂が営業している数少ないサービスエリアでラーメンを食べました。そのサービスエリアで、病院から、「雨にあたらないように」「車の外に出る際は、首にもタオルを巻いたりして、極力肌を露出しないように」という指示がありました。その時点では、我々はなぜこんな支持を受けるのか理解できませんでしたし、病院に帰院したら、すぐに着替えて、シャワーを浴び、極力人と接触しないように帰宅するようにというような指示まで出ていました。
私は、この災害救護に行く際には、遺書まで書いていました。再度、同じ規模の地震や津波が起きれば、自分も生きて帰れないだろうと本気で考えていました。今から考えると、馬鹿馬鹿しいほどの悲壮感を感じていたのですが、この時は大まじめで、親しい人にも、出発前にお礼の御挨拶のメールを送っていたものでした。実際には、この任務で死んでもかまわないくらいの気持ちでいただけに、救護から帰って、まるで汚いものでも扱うような病院の指示に、とても腹が立ったことが思い出されます。
現場では、福島の原発で事故が起きたことはほとんどわかっていませんでしたから、振り返ると、この時の病院の指示が放射能被害にあわないようにという意味での指示であったことが理解できますが、この段階では、訳も分からず、とにかく不快な思いをしていました。
車の外に極力出ないように言われたため、その後はサービスエリアでの休憩もなく、まっすぐに帰院しました。
埼玉に戻って、その日に自分の車のガソリンを入れに行くと、軒並みガソリンスタンドは大行列が出来ているか、もう本日分のガソリンがないということで営業終了しているような有様でした。幸いに花園インターそばに穴場のようなガソリンスタンドがあり、そこでガソリンを入れることが出来ましたが、その後は給油するガソリンの量も制限されるようになり、加えて、スーパーやコンビニで置いてあるパンなども売り切れるような状況が増えていきました。埼玉というさして被害の爪痕のないような地域ですら、このような物資の欠乏する状況にいたっていたことからも、震災の影響の大きさが窺い知れます。

2021年3月12日(金)

 東日本大震災(4)
投稿:長野央希
3/15に起床すると、昨日同様、視聴覚室での朝のミーティングが行われます。業務連絡の中で、再び医師同士が、やり場のない怒りをぶつけあうようなシーンも見られましたが、こういう極限状態では、時に思いをぶつけあう方が、ストレスをためすぎないためにもいいのかもしれません。誰も経験したことのない極限状態で、最善の方針を打ち出すことは困難で、試行錯誤の中から、よりよい方策を見つけ出すという状況でしたから、震災発生から1週間はみんな手探りで、最良の方法を見つけ出そうとしていたといえるかもしれません。
その日は、病院の玄関前で、トリアージを行う任務を受けました。患者さんの状態を見て、重症度を判断し、重症度に応じて色分けし、それに対応する治療スペースに誘導するという役目です。
大概の方は、歩いて病院を受診されましたから、そういった方々は基本的にはトリアージの緑(軽症)となります。
そんな中で、津波で身動きが取れず、自宅にこもらざるを得なかった高齢女性が救急搬送されてきたケースもありました。足が不自由で、家から出られなくなっていたのですが、幸いに大きな問題はなさそうでしたので、ひとまず黄色のブースに行っていただきました。
最も、印象に残っているのが、3/11に被災してから、丸太のような木に乗って5日間海を漂流していた老人が、自衛隊のヘリコプターで救出され、そのまま石巻日赤に搬送されてきたケースです。自力歩行もままならず、隊員に両わきを抱えられ、何とか病院玄関においでになりました。全身ヘドロのようなものがこびりつき、海特有の匂いが強烈に印象に残っています。3月の海上ということで、非常に寒い中、よく生存できたと思えるほどの状態でした。低体温もあり、トリアージ赤のブースにお連れしました。海水を飲んでいたりということもあって、肺炎が合併していく可能性が高いことが予想されました。
その他では、玄関前で、亡くなったと思われていた石巻日赤の看護師が、無事であることを伝えに来院する場面もあり、また患者さん同士で、無事に再会できたことで、泣きながら抱き合っているような光景も目にしました。
中には、その日が抗がん剤の点滴の日で来院した方や、内視鏡検査の予定なので来院したという方もおられましたが、当然のごとく、この混乱状態で、予定治療や予定検査は出来ません。これを受けて、抗がん剤治療をされている方は、自分のがんが悪化していってしまうのではという恐怖を吐露されていました。確かに、未曽有の被災を被った地域で、安定して抗がん剤が供給されるようになるまで、あるいは病院として日常診療に戻るまでにどれほどの期間を要するのか、全く未知数であるため、上記のような不安を抱く人も少なくなかったと思われます。

この日は、気温も低く、30分程度でも屋外で働いていると、寒さが堪えるような気候でした。このような中で、生き延びた多くの被災者の方々に、敬意を表さずにはいられません。
昼過ぎまで、トリアージの仕事をしてから、夕方前に石巻を去り、埼玉への帰路につきました。その当時働いていた日赤で、私たちは第二班でしたが、既に第三班が被災地に向かっており、そういった兼ね合いで、任務終了となりました。


2021年3月12日(金)

 東日本大震災(3)
投稿:長野央希
巡回している避難所には、何人か妊婦さんもおられました。一人は、「おなかのはり」を強く自覚しておりました、幸い、私の医療班では看護師の一人が助産師であり、その方と相談し、切迫流産の危険もあると判断されましたので、巡回地から石巻日赤の本部に戻った際に、この妊婦さんの件を相談し、救急車を用意して、福島の病院に入院させてもらうことが出来ました。
あのような不幸な出来事の直後に生を授かるということは、とても感慨深いもので、何とか無事に生まれて、そして力強く成長してほしいと願わずにはいられませんでした。
その他、避難所では、診療の他に、避難している人たちの話をよく聞くのも一つの仕事でした。最も、印象に残っているのは、中年から初老にさしかかった男性の話です。その方は、津波の中奥さんとともに逃げていたそうですが、途中で大きな波にのまれ、目の前で奥さんが流されてしまったということでした。ここでは記載を控えるほど、目を覆いたくなるような光景であったということを涙ながらに話しておられました。目の前で肉親や愛する人が津波にのまれるのを目のあたりにしつつ、全く何もしてあげられないという無力感にうちのめされるという信じがたい事故に見舞われた辛さというものは想像を絶するとしか言いようがありません。こういった被災者の方々が、少しでも思いを口に出すことで、苦悩を和らげてあげることも救護の役目なのだと強く思いました。
その日は、石巻日赤からの要請で、埼玉から血液透析の回路の備品や蒸留水と、その他、不足しがちなおむつを持参し、病院にお渡しする仕事もありました。確か地下に薬局や備品庫があった印象があるのですが、そこで各備品をお渡ししました。この際に地下の広間のようなスペースが目に付きましたが、この広間では、シートにくるまれた御遺体が多数安置されていました。当時8年近く医者として働いてきましたから、望まなくても人の死と少なからず関わってきましたが、これほどの光景は後にも先にも目のあたりにすることはありませんでした。
被災者の方々や、石巻日赤の職員の方々に比べれば、自分等の疲労は、取るに足りないものであるとは思われますが、それでも、巡回から17時過ぎに戻ると、とても疲れていました。食事もままならないであろうと覚悟しておりましたが、幸いに避難所では炊き出しのおにぎりや桜餅を御馳走になりましたし、夜は病院内で、備蓄しているカップラーメンと干し芋をいただくことが出来ました。この時、カレー味のカップヌードルを食べましたが、寒いところから戻っているところでの、温かいカップヌードルというだけで十分心が満たされましたし、麺は完全に伸びていましたが、恐らく自分の人生で一番おいしいカップラーメンでありました。涙が出てきました。私の苦労など取るに足りないとはいえ、これが命の味なのかもしれないと思いました。
その日は、ミーティングを行った視聴覚室の部屋の角のところで、台車をたためば眠れるスペースがあったため、台車を片して、そこで眠りました。頭の上には大きなスピーカーがあり、余震の揺れのたびにスピーカーも揺れているのが見えました。これが落ちて来たら、生きてはいられないだろうと思いつつも、仮に落ちてきたら、即死であって、苦しむこともないだろうと、妙に腹が座っていました。それくらい疲れていたのもあるかもしれません。

2021年3月12日(金)

 東日本大震災(2)
投稿:長野央希
眠れたか眠れないかよく分からないような一晩を過ごすと、朝のミーティングのために視聴覚室と思われる大広間に集合いたしました。全国からきている日赤の救護班に加えて、DMATのメンバーもおり、本日の業務などの確認を行いました。この3/14でDMATは撤収するということでしたから、その日からは災害医療の現場は基本的に日赤の医療チームが主体になって診療にあたることになります。
朝のミーティングは、単なる業務連絡かと思いきや、石巻日赤の医師陣は、疲労のピークということもあってか、すんなりとした業務連絡に終わらず、災害医療チームのリーダーの医師に対して、公然と怒りをぶつけたり、文句を言うようなシーンも見られ、かなりピリピリしたムードに包まれていました。何とかその場もおさまると、具体的にどの医療班がどこに行くか等の振り分けが行われ、私たちの医療班は桃生地区の避難所を巡回する任務を受けました。三か所ほどの学校や公民館を巡回診療いたしました。前日までは津波で市街地も完全に浸水して、避難所までボートで行かなくてはならなかったという話でしたが、3/14は水もはけている部分も増えて、車移動が可能となっておりました。この桃生地区はやや山間の地域であったと記憶しておりますが、その分津波の被害をさほど感じなかった印象があります。小学校の体育館などが避難者の生活空間となっており、多くの人たちが段ボールなどで区画を分けつつ、家族同士身を寄せ合っているというような状況でした。
三か所ほど巡回し、概ね70人程度の患者さんの診療にあたりましたが、最も印象に残っているのが、津波の中何とか裸足に近い状態で逃げ延びてきた女子高生の方です。裸足で水の中を歩いてきたため、ガラスか何かで足を切っていました。傷自体はさほど重症なものではないのですが、震災の影響で上下水道とも機能しなくなっていましたので、当然水道も出ず、傷口を洗浄することも十分できないという状態で、持参している生食や蒸留水で、何とか毎日傷を洗浄するという処置が繰り返されました。傷をあまり清潔でない状態で縫合すれば、確実に感染を起こしてしまうため、傷の縫合は行わず開放したまま、洗浄し、抗生剤の内服のみを行っていただいておりました。この子の場合は傷の治療もさることながら、精神的なストレスで、発語が出来なくなっているということの方がより深刻であろうと考えられました。3/14時点では、この子の家族の安否すら確認できていない状態で、この年齢では考えられないような大きな心的ストレスを背負っていると言えます。
この事例は、もしかしたら、この東日本大震災のけがの典型的なものの一つと言えるかもしれません。災害の被災者の方は、津波を逃げ延びることのできた人は、概ね外傷は重症ではないこと、肉体的なダメージよりも精神的なダメージの方が大きいかもしれないこと。
その他では、着の身着のままで逃げてきたため、常時服用しなくてはならない薬が欲しいという患者さんが多数おられました。勿論、薬手帳などすべて紛失しているため、何の薬を服用しているかすら分からない状態でしたから、処方も非常に悩まされました。高血圧と高脂血症で薬を飲んでいますと言われれば、曲りなりの処方が出来ますが、御高齢の方によっては、自分が何の病気で治療しているかすら分かっていないケースがあり、どう処方すべきなのか途方に暮れそうなケースもありました。また、糖尿病でインスリンを自己注射していましたという方も複数おり、避難所で食生活も不安定になり、結果的に低血糖のリスクも高くなる懸念があることから、(低血糖よりは高血糖の方が、すぐに命にかかわることがないことも踏まえ)低血糖の起きにくい内服薬を処方して、何とか対応したのも強く記憶に残っています。
更に、何らかの疾患でワーファリンを内服している方への投薬も非常に悩みました。そもそも、ワーファリンを何mg内服しているかもわからない中、本来であれば、PT−INRという値を測定して、ワーファリンの分量を決めるところが、当然、そういった検査は全くできなくなっている状態でしたし、不規則な食事やストレスでワーファリンをいつもと同僚飲んだとしても、過剰に効きすぎてしまう危険もあり、バイアスピリンなどの薬剤でお茶を濁すしかない例もありました。

2021年3月12日(金)

 東日本大震災(1)
投稿:長野央希
東日本大震災から、ちょうど10年が経ちました。
この十年が速いと思う人もいれば、塗炭の苦しみで、あまりにも長いと感じた人もいるかもしれません。どのような10年だったかは、人によって異なりますが、復興に関わることや原発の問題など密度の濃い問題提起のなされた年月でした。
私は3/13〜15まで日赤の救護班として、宮城県石巻に行っておりましたので、その時のことを書いておきたいと思います。
個人的な話ですが、さかのぼって中越地震や中越沖地震の際に、私は都内の病院で働いておりました。特に中越地震の時には、関越道が大きく破損し、しばらく新潟に帰ることもままならず、震災で苦労している同胞のために、何一つ役に立てなかったことが、とにかく悔やまれ、何だか地元の人を裏切ったような罪悪感を抱き続けていました。そんなこともあり、東北で震災が起きた時には、その罪滅ぼしのような感情も入り混じって、救護班に志願いたしました。
2011年当時、私は埼玉県内の日赤病院で働いておりましたので、3/13に北埼玉から東北道を通って、仙台に向かいました。震災直後は、東北自動車道は車両通行止めとなっていたため、自衛隊車両と日赤車両の他は車が走っていない状況でした。そして、白河インターを過ぎたあたりから、高速の路面が陥没していたり、段差が出来ていたりと地震の爪痕を色濃く感じられるようになり、とても高速で運転できる状態ではなくなっていきました。何とか、仙台まで来たは良いものの、市街地は軒並み停電して、信号は完全に機能していませんでした。そして、宮城県庁に到着し、そこで到着報告と、任務の指示を仰ぎましたが、県庁の庁舎内は入り口を入ると、エントランスに所狭しと、布団やござを敷いて寝ている避難してきた人たちの光景が広がっておりました。階段の裏にも疲れ切って寝ている人がおり、本当にここが日本なのかと、目を疑うような状況です。県庁の会議室のような部屋が、対策本部となっており、そこでは県庁の職員や自衛隊員などが忙しそうに働いておりました。対策本部で石巻日赤に行くように指示を受けて、その足で石巻に向けて移動しましたが、高速もさることながら、下道も、段差ができていたり、倒壊した壁や塀で道路が遮断されていたりという極めて運転が大変であったと思いますが、日赤の職員の方々には無事に運転していただいて、改めて感謝いたします。話によると前日までは一面が水没していたということでしたので、それに比べると、車が走れただけ、水がはけてきていたということなのだと思われます。
14時に埼玉を出発し、石巻日赤に到着したのは、深夜の1時を過ぎていたと記憶しております。病院内も、エントランスからして避難してきた人たちが一面寝ています。病院の床は、水害の痕を示すように砂まみれでした。二階には、医局や視聴覚室がありましたが、その階段のところまで避難している人の寝床となっていました。二階は二階で、病院の職員や救護班が所狭しと、休息をとっており、廊下や図書室等、スペースがあれば、そこでスタッフが休んでいるという状況でした。
私たちの救護班では二名の看護師がおりましたが、到着するや、看護師は看護の手伝い要請を受けて、休息する間もなく手伝いに回っていきました。私や事務方は、ひとまず休息をとることが出来ましたが、当然寝るスペースなどほとんどなく、やむを得ず、院長室の前の廊下に布団を敷いたり、寝袋にくるまったりして、就寝しました。院長や副院長もみな泊まり込んでおられ、トイレなどに行く際に、我々のような廊下で寝ているものを踏まないように、気をつけて歩かれていました。

2021年3月11日(木)

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