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 最近思うこと(4)
投稿:長野 央希
去る大相撲九州場所の千秋楽で、横綱大の里関がケガにより休場した件が、色々と物議をかもしました。
待望の若い日本人横綱として、順調に成長を重ねている姿を見て、エールを送ってきました。しかも、大の里関は新潟の中、高校を卒業しているのもあって、より頑張ってほしいという気持ちがあります。
千秋楽休場を知ったときは、正直なところ、横綱の責任を果たすべく、無理を押してでも出場してほしいというような気持ちもありました。相撲という元々は神事である行事で、その第一人者である横綱がその年を締めくくってほしかったという思いです。しかし、ケガの内容が左肩鎖関節脱臼であり、場合によっては相撲人生の終了ということにもなりかねないことを踏まえ、しかも、師匠の二所ノ関親方(稀勢の里)が横綱になって以降ケガに泣かされ、引退を大幅に早めた経緯もかんがみて、休場という決断に至ったものと考えられます。これは英断であったと言えましょう。
これが、この時を逃すと二度と優勝争いに加われない力士であれば、無理を押してもということもありえたでしょうが、これから長きにわたり、常に優勝争いを演じるであろう大の里であれば、自重して然るべきであったと思います。
ただ、理屈ではそう考えますが、私のように古い日本的考えを引きずる人からすると、今年の最後の場所の最後の取り組みであったことから、やはりもやもやした感情が残ったのも事実です。

ところで、これまで高校球児が、投げさせられすぎて、肩を壊し、野球人生を終えざるを得なかった例は少なくなかったでしょう。一度、そういった元球児に率直な思いを聞いてみたいという思いがあります。自分の野球人生をつぶされたということで、監督や指導者、チームメイトに怒りの感情を抱いているのかどうか?
特に選手層の薄いようなチームでは、エースへの負担が大きくなるでしょうが、むしろ、彼らはやらされて、仕方なく投げていたのでしょうか?むしろ、自分はチームに必要とされていて、「俺がやらなくて誰がやる」くらいの意気に感じていたのではないだろうかとも思うのですが、どうなんでしょう?
全く、次元の小さい話になってしまいますが、自分に即して考えてみました。自分も2020年から発熱外来をやっておりましたが、2020年から2023年までは屋外で発熱を診ていました。COVID-19のパンデミックの最初の三年ほどは、発熱を診ないという医療機関が多く、その分発熱外来を行っている医療機関への負担が大きかったのは事実です。そんな中で、自分はほぼ毎日、炎天下であろうが、極寒の中であろうが、自分の体調がすぐれない日であろうが、外で診療を続けていました。これは誰かに強制されていたというわけではありません。発熱を診ない医療機関がやたらと多い中で、自分がいま、この仕事を放りだしたら、困る人がいるという思い、必要とされているからこそ、この仕事をやり遂げようという小さいながらのプライド、そして「発熱を診ようとしない他の医者は、医者として恥ずかしくないのか?」という怒りから、自分で進んで仕事をしていました。いつでも熱中症や低体温にでもなりえる環境でやり通したのも、自分の意地とか、誇りとか、他の医者への怒りがあったからこそなのです。実際のところ、あまり自己犠牲を払ったというような意識はありませんでした。

高校球児も、自分の肩や肘を傷めて、野球人生を終えざるを得なかったとしても、自分はチームの犠牲になったという意識が生じたかどうか?周囲が悲劇と考えるほど、本人たちは悲劇的にとらええていないのかもしれないと思ったりもしますが、本当のところは分かりえません。

これまでの日本では、その組織のために自分が犠牲となる姿が崇高で、日本的な美意識に合致してきたように思われます。古典の軍記物や歌舞伎、講談などでもそうですが、楠木正成のように主君のために、自分の考えを曲げて、忠義を尽くし、散っていったというのは、従来であれば、もっとも日本人の琴線に触れる物語でありましたが、そういった従来の価値観は、時代とともに、今後どんどん変化していくのかもしれません。

2025年12月18日(木)

 最近思うこと(3)
投稿:長野 央希
今年も、もう残りわずかですが、広島東洋カープの闘い振りを思い返すだけで、悔しさがこみ上げてくる一年でした。
新井監督をはじめ監督コーチの刷新をしてほしいと思っていたくらいです。
巨人の二軍監督の桑田さんが退任したというのと、横浜の石井琢朗コーチが退任したというので、広島のコーチとして、石井さんに戻ってきてもらい、桑田さんと、桑田さんの中学時代の女房役の西山さんで、カープのバッテリーコーチにでもなってくれないだろうかなどと夢想した物です。私は、子供の頃、PL学園で体が小さいのに大エースであった桑田さんのファンでした。巨人に入団してからも、カープ戦以外では応援していた物です。そんな馬鹿馬鹿しい希望を抱いておりましたが、石井さんがすぐさま巨人に戻る形で、自分の夢は早々に打ち砕かれました。
自分が青春時代にカープで一番好きだったのは、金本選手と前田(智)選手でした。ただ、両者とも、あまり指導者をイメージできないのが現実です。(実際に金本さんは阪神監督で、色々と叩かれましたし)
その前の世代である高橋慶彦さんも好きでしたが、何となく、カープに戻ることはなさそうですし。
そんな、こんなで来季の広島はどんなもんだろうと思っていたところ、驚くべきニュースがありました。
桑田さんが、オイシックス新潟のチーフ・ベースボール・オフィサー(CBO)に就任されました。
CBOって何だと言う話ですが、監督やGMよりもより高位のポジションのようです。今後のチームに関する全権を握っていると言っても過言ではない職種のようです。
私は、魚沼時代に、一度BCリーグの頃のアルビレックスが魚沼に来たことがありまして、その試合を見に行きました。確か、群馬との試合であったと記憶しておりますが、途中で土砂降りになったりして、中断したりと、選手にも観客にも
なかなか過酷な環境だったことを思い出しました。
最近は、広島を退団した藪田選手や松山選手が新潟入したりと広島関連の話題もありました。
そんな新潟の野球団にどんなビジョンを描いていってくれるのか、とても楽しみにしています。勿論、そんな短期で結果が出せる物ではないでしょう。更には、良い選手を育てた場合に、すぐに一軍の球団からドラフトがかかるようになる可能性もあり、順調に強くなるのかどうかも注目です。

新潟にも頑張ってほしいですが、とにもかくにも、来年、一軍では広島がせめてAクラス入してもらいたいと切に願っております。
また、サッカーではアルビレックス新潟が一年でJ1に復帰してもらいたいものです。


2025年12月15日(月)

 最近思うこと(2)
投稿:長野 央希
2024年に行われた全国学力テストで、学力低下が顕著だったという報道がありました。原因は複合的要員とされておりますが、探究学習やグループワークの授業の増加が一因ではないかという論考もなされております。
私は、現在の指導要綱などを把握しておりませんので、あまり無責任なことも言えませんが、自分なりに考えました。探求学習と言うのは、自分で疑問点をあぶり出して、課題を立て、その課題に取り組んでいくという物のようですが、現実的に可能なのかどうか。まず、自分が小中学生の頃は、自分が何を分かり、何が分からないのかすら、はっきりしてませんでした。そのような状況で、自分達で課題を見いだし得るものでしょうか?しかも、一人一人で課題が千差万別となると、一つの授業では収拾がつかなくなるでしょう。そもそも、40分とか50分の授業時間で、課題解決出来る訳がないように思われます。解決出来るのたとしたら、それは予定調和の上っ面だけの課題なのではないかとすら思えてしまいます。
やはり、小中学生というのは、従来からあるようないわゆる読み書きそろばんのような教育を徹底して学のが良いのではと思うのは私だけなのでしょうか?
そういった基本を身につけて初めて、自分の足らない部分や、分からない部分に気づくことが出来、そこから課題を見いだしていけるのでは無いかと思うのです。そして、課題の解決というのは一時間足らずで、成し遂げられないだろうことを理解すべきです。
限られた授業時間では、やはり教師主導の講義形式がもっとも効率的なのだろうと考えます。

一方で、個人的には、デジタル化という物が、学力低下につながっているのではないかと思っております。
最近は、医学論文もデジタル化され、パソコンやスマホで閲覧できるような便利な時代になっております。しかし、大分前から、デジタルで論文を読んだ物は、あまり頭に入ってきていないことに気づいておりました。私の注意力散漫のせいなのだろうかと、結構悩んでいる時期もありました。ただ、デジタルでの論文をプリントアウトすると、しっかり把握でき、頭に入ってくることも認識しておりましたので、私は極めてアナログ型の脳をしているのだろうと思っておりました。しかし、その後、榊浩平先生著の『スマホはどこまで脳を壊すのか』(朝日新書)を読んでいて、「デジタルで検索した情報は覚えることが出来ないと言うより、覚える必要が無いと脳が認識している」と言う主旨の記述が有り、とても合点がいった記憶があります。
今や、一つの言葉を調べるだけでも、デジタルですぐに検索できるような便利な時代です。外を歩いていて、ふと疑問に思えば検索する。その場では分かった気になりますが、その時に学んだことはどこまで頭に入っているでしょうか?
私は読書が好きで、しかも紙媒体での読書が好きです。辞書や辞典というのも検索すると、その言葉の載っているページにたどり着くまでに時間もかかりますが、その途中で、他の言葉や他の事物で、面白いともう物に寄り道したり出来ます。案外、こういった寄り道で、新たな発見が出来たりするのです。むしろ、目的よりも寄り道が、将来役に立ったりするものです。

デジタルというのは大変便利ではあると思いますが、子供の脳の発達においては、紙で読み書きする、自分で、鉛筆やシャーペンを使って、実際に文字や図形を書くと言うアナログなことが極めて重要なエッセンスなのでは無いかと思っています。
また、国語力をもっと重視する必要があると思います。
科学論文であろうが、体外の物は文章を読んで、理解することが基本になりますし、自分の考えを主張したり、論理的に物事を考えるには、国語力が不可欠であるからです。
受験云々など関係なく、論理的に物を考え、それを相手に論理的に伝えられるということこそ、教育の最低理念にすべきなのでは無いかと思います。

2025年12月15日(月)

 最近思うこと
投稿:長野 央希
12/8に震度6強(マグニチュード7.5)の青森沖地震が起きました。東日本大震災後の『ゆっくり滑り』の発生場所が青森沖に広がっている可能性が指摘され、今後1週間程度の間委にさらなる大地震発生への警戒を要するということです。日本は地震の多いこと自体は、やむを得ないこととはいえ、これから被災が拡大していかないことを切に願います。
万が一、続発する巨大地震が起きた場合の対応も万全にしておく必要があります。個人的な不安として、そういった続発する巨大地震で、大きな被害が起きた場合に、そのどさくさに乗じて、隣国からの悪質な言動が増強されるのではという懸念があります。
日中関係が現在冷え込む中で、先日には自衛隊機へのレーダー照射という事件まで起きております。これは国によっては即戦闘となりえるほど危険なことであったと言えます。残念ながら、中国という国は反日が絡むと、実に子供じみた言動が増える印象がありますが、子供じみたでは済まない事態に発展しかねない行為でしょう。
中国人の方で何人か知り合いがおりますが、皆さん、とても人の良い方です。(少々、心配性な方が多いような気もしますが)中国人一人一人を見ると、友好関係を構築することは何ら難しいことではないのですが、中華人民共和国と言う国家になると様相が変化します。
それは何故なのかと考えていくと、最終的には中国共産党の指導の問題に行きつかざるを得ない気がします。
古来からある中華思想に加え、共産党として長らく行ってきた反日教育という思想統制によって、プライドの高さと卑屈な感情がないまぜになって、結果的にいびつな国家関係につながってしまっているような気がするのです。
そこに加えて、中国バブルの崩壊による大不況、失業率の高さから社会不安をきたしている。また、他民族国家で、チベットやウイグルへの締め付けも厳しくしていることで、常に大きな不満要素を抱え込んでいる。中国人民の不満の目をそらすために、台湾併合や日本の属国化でポイントを稼がなければならないという現指導体制の焦りも見られるような気がします。
しかし、今、中国共産党指導部の行っている政策は、悉く裏目に出てきていると思われます。
これだけ、国内外を往来する人たちが多い状況で、いつまでも中国人民への情報統制を続けられるわけがないのです。当然自由主義的発想が流入すれば、そちらに人民の気持ちが流れていくことは間違いありません。そもそも、共産主義なのに、共産党指導部が王侯貴族のような富裕な生活を送っているという矛盾から始まって、中国共産党の信条を疑いだしたら、止まらなくなるでしょう。
また、世界に対する働きかけにおいても、今のような言動を繰り返せば、誰が彼らを信用に値する国家と考えて付き合ってくれるでしょうか?そうなれば、貿易などでも大きな支障をきたしてくるでしょうし、結果的に益々経済的苦境は増大していくでしょう。世界的な孤立は致命的になりえます。
今のままで行けば、世界から孤立し、国内の多くの人民及び少数民族の不満から巨大な反乱が起きてもおかしくはないと危惧します。
古代から中国では、農民の反乱が拡大して、最終的に王朝の滅亡、新たな王朝の誕生を繰り返してきました。
今の状況が続けば、早晩そういった革命的な大きな動きが起きるのではないかと考えざるを得ません。

いずれにしろ、現状の我が国としては、相手の子供じみた挑発に、大人として毅然とした態度で対応すべきだと思います。同じ土俵に立つべき段階ではないと思います。

2025年12月11日(木)

 不惑?
投稿:長野 央希
魚沼に比較的まとまった雪が降りました。とは言え、今のところ、警報級の大雪の恐れというにはほど遠い積雪で、ほっとしております。
昨日の21時くらいに魚沼に到着しましたが、その段階では雨なのか雪なのかわからないような降雪でした。23時過ぎから降雪量が増えていきましたが、自分がいた場所が山間の場所であったこともあり、翌朝の車の上の積雪量は平野部よりは多かったとはいえ、30cm程度であったように見受けられます。
一晩で1m近い積雪があると、車の上の雪はらい、車の周囲の雪堀りで、優に30分以上かかり、加えて汗の量が多ければ着替える必要もあるので、通常よりも一時間ほど早く行動しないと、出勤時間に間に合わなくなるのですが、今日はさしたる雪ではなく、ひとまず良かったです。
もっとも、これからが本格的な雪のシーズンですので、気を引き締めて、事故などに気を付けていく必要があります。

最近、何かきっかけがあるわけでもなく、頭の中で「不惑」という言葉が繰り返されるようになっていました。孔子の教えで「40にして惑わず」というものがあり、40歳のことを「不惑」と言いますが、どうなのだろうと自問しています。
自分が子供のころ、親や先生やそのほかいろいろな大人と接してきましたが、小中、高校時代に接してきた大人たちというのは、多くが30〜50代の人たちだったと思われます。多くの大人は、子供である自分に断定的に指示をしたり、命令したり、教え諭しておられました。あの当時、大人というものは間違いを犯さないものなんだろうと思いつつも、自分の天の邪鬼な性格から、大人に言われたことを表面的には忠実に守っているふりをして、全く正反対のことや自分のいいようにふるまっていた記憶があります。大人に逆らうのは労力と時間がかかることを身をもって学んでいたこともあり、「やっています」というポーズをとるのは上手でしたが、今から考えると、大変小賢しいガキだったのだろうと思います。子供時代に身に着けた、言われたとおりにやっていますというふりをするスキルは大人になってからも実に役に立っております。医者になって、上司からの指示で、承服できかねるようなものがあった場合、最初は指示に従い、あるいは指示に従うふりをしつつ、徐々に自分の「やるべき方向」に軌道修正していくのですが、ほとんどばれずにそれを完遂するテクニックは、自分で言うのもなんですが、名人芸のような感がありました。
話が脱線してしまいましたが、子供のころ、大人たちが多くのことを断定的に語る姿を見て、これが「不惑」というものなのだろうかと考えていました。
今、自分が40の後半となり、子供のころに接していた大人たちと同じ、あるいはそれよりも高年齢になって、自分を顧みると、全く「不惑」と程遠い状況にあるのです。毎日、毎日、迷いの連続なのです。物事を決断した後も、これで大丈夫だろうかと不安に駆られます。
色々な可能性を考え出すと、結論を出すのに躊躇するような局面ばかりです。それでも、結論を出さないといけないので、恐る恐る結論を出して、不安がぬぐえないような夜には、酒をあおって、寝てしまうのです。幸いに、不安や恐れを翌日に引きずらない性格で良かったと思います。
どうやったら、不惑の境地に達するのか分かりません。このままいけば、生涯その境地には至らず、毎日毎日惑い迷い続けるのだろうと思えます。
成長して、色々と学び、色々と経験してくると、もっといろいろな可能性があることを知り、逆に迷いが増えている気もします。むしろ、何も知らない方が、結論をすんなり出せるのにと思ったりもします。ただ、生きている以上、迷うのは当たり前なのかもしれません。最近、「不惑」になれなくても良いような開き直りの気持ちも芽生えております。

子供のころに感じていた大人への反抗心のような感情は今も残っています。権威的な人や偉い人の話は、決して正しくないことを多く経験してきた分、偉そうに断言している人は疑ってかかるべきだと学びました。マウントを摂りたがる人は大概正しくないことが多いですし。それは偉い学者であろうが、政府高官や、有名なコメンテーターであろうがです。彼らの価値観や正義感はあくまでも彼らの価値観、正義感であり、自分の価値観、正義感とは違うのです。それをおしつけることくらい、押しつけがましいことはないでしょう。
沢山の子供たちが、成長過程で大人との確執で悩んでいるかもしれません。大人というものは絶対的に正しいものではないので、言われたことを忠実に守ろうとするよりも、言われたことが正当なのか自分なりに調べたり、考えたりして、迷いつつも自分で結論を導くように努力することが成熟した大人になるうえで極めて大事なように思われます。






2025年12月4日(木)

 最近の話題
投稿:長野 央希
11月に入って、急激にインフルエンザ罹患者が増加し、先週から急増している感があります。ほぼA型インフルエンザでありますが、今週の火曜は連休明けということもあり、当院で50人ほどインフルエンザの患者さんの診察をいたしました。新型コロナ(COVID-19)の流行期に、一日最高54人のCOVID-19の診療にあたった時をほうふつとさせる数であると言えます。このCOVID-19の54人という数も、その当時、発熱外来をしている医療機関が少なかったため、当院に患者さんが集中しやすいという傾向があったのに対して、今のインフルエンザについては、他の医療機関も普通に発熱患者さんを診療しているのに対しての、この数であることを考えると、驚異的にすら感じます。
当院では、インフルエンザ、COVID-19、マイコプラズマ、百日咳などを含めたPCR検査を行っておりますが、その項目にライノ/エンテロウイルスが含まれます。特段珍しいウイルスではなく、所謂風邪ウイルスでありますが、案外と、こちらのウイルスも多いのです。
実のところ、私も、先々週にこのライノウイルスに感染しておりました。自分の体験談としては、ざわざわとした悪寒があるにもかかわらず、熱は平熱で、咽頭痛が軽微であり、一方で、鼻汁が非常に多く、咳嗽も常時出るわけではないものの、出だすと、なかなか止まらないという症状でした。熱がないにもかかわらず、非常に倦怠感が強く、土曜は診療後帰宅して早々に寝てしまいましたが、翌日の日曜も依然として倦怠感が強く、一日寝たり起きたりを繰り返しておりました。風邪とは言え、なかなかしんどい一週間であったと言えます。
熱がないが、寒気やだるさが強い場合は、こういったライノウイルスなどの可能性もあるのではと思います。
百日咳やマイコプラズマも一時期ほどではないにせよ、依然として感染者は出続けております。咳が遷延している方は、その感染も疑う必要があろうと思います。
また、最近というわけではありませんが、ここ二年ほど帯状疱疹や単純ヘルペスの患者さんもよく診るような印象があります。しかも、高齢の方ではなく、若い患者さんが結構多い印象です。厳密な統計を取ってはいないので、あくまでも印象ではありますが。

例年通りではありますが、この時期は胃腸炎なども流行りやすくなります。
この数年の傾向からすれば、12月下旬ころからCOVID-19の冬の流行期が始まると予想されます。

特に御高齢の方は、重症化予防のために、ワクチンを活用することも御検討いただければと存じますし、何よりも人ごみに行く際のマスク着用や手洗いの励行が重要といえます。

最終的に、感染症から自分を守るのは自分であるという認識をもって、この冬を乗り越えましょう。


2025年11月27日(木)

 日本人の勤勉さ
投稿:長野 央希
休息に冬に向かって季節が走り出している今日この頃です。
先日は、魚沼で初雪が降りましたが、初雪にしては思ったより積雪しました。今回の雪はすぐに融けるでしょうが、いよいよ冬だなと実感がわきます。

高市政権が発足し、早一ヶ月が経ちました。これからどう政権運営をしていくのかはお手並み拝見という所でしょうが、現状、首相の答弁や発言は概ね賛同できるものであるように思います。
彼女の発言として「馬車馬のように」という部分で、何故か相当な批判的意見が出ているのですが、個人的に歯正直なところ、その批判の意味が分かりません。

私は、医師として働き、20年余が経ちました。最初の16年を勤務医として働き、2020年以降は開業医として働いております。
研修医時代は都内で働いておりましたが、二年目の研修医時代、一時墨田区の病院で働いておりました。同院の血液内科で研修した初日に担当した入院患者さんが、想像以上に重症で、初日から5日間病院に泊まり込まねばならないような状況になりました。病院のシステムやどこに何があるのかまるで分からないけれども、仮眠室の場所だけは把握するというような有様でした。最初の二週間くらいは、連日上席の先生に罵声を浴びせられたり、怒られたりという日々でした。毎日、自分の不甲斐なさや情けなさで、泣きたくなりつつも、必死で食らいついていたら、その後、その先生から大変かわいがってもらえるようになり、本当に感謝しております。
あの時に、自分の仕事という者が、人の生命に直結するような仕事であり、人の生死に関与する以上は、時には自分の人生を削るような必要があるのだという覚悟を持てるようになりました。
その後、何年か経って、日赤の職員として、地域医療に受持することになりましたが、要は、医師不足にあえいでいるような病院に派遣されるのですが、その時に赴任したのが北海道の病院でした。そこは、病床数300床近い病院でしたが、私が赴任するまでは内科の常勤医が2人しかいないというような状況で、どうやってやりくりしていたのだろうかと不思議なレベルでした。
そこでは、医療崩壊の危機というのはこういうことなのだと言うことを痛感させられました。
そこでは、血液内科の簡単な抗がん剤治療は行いつつ、神経内科的な疾患の検査や治療も行う必要があり、上下部とも内視鏡を行うひつようがありましたし、ある一日では、外来終了後に、ペースメーカーを留置し、それが終了したら、ERCPの介助に入るという感じでした。近隣にホスピスなどないので、肺がんなど癌の終末期の方の入院対応もしておりました。とにかく、内科の全分野に対応しなければならないという感じで、今思えば、こんな医療状況があって良いのかというレベルです。
そんな状態ですから、常に入院担当患者さんは30人を下回ることもなく、30人以上患者さんを診ていれば、常にその中にはかなりの重症の方もおられます。
ある週には、三日連続、深夜3時に病棟から呼び出されました。
1回は、昇圧剤投与中の患者さんの点滴が取れなくなっていると言うことで、早朝に中心静脈カテーテルを留置せざるを得ないことになったこともありました。(今なら、そこまで切迫していないので、朝まで待ちましょうという判断も出来たと思うのですが、あの頃は若さもあって、必要以上に働いていた可能性はあります)
つまるところ、医療というのは、医師のQOLを犠牲にしなければならない自体が起きえると言うことです。患者さんに実害が出るような事態は避ける必要があるのです。医療崩壊しかかっている病院というのは、一人一人の医療者へのしわ寄せがひどいために、医療者が疲弊してやめてしまい、残った職員が更にしわ寄せが来て疲弊を強めるという悪循環に陥る構図があります。その為行政なども一丸となって、職員の確保をすることが急務なのです。
このことは今回の話の本筋ではありません。

医療者は、人の生死が関わる仕事で有り、臨戦態勢にあるとも言えます。
その場合に、自分のライフワークバランスなどは偽性にせざるを得ない事があるのです。
政治家や官僚や自衛官(軍人)といった公僕も、国難になるような状況では、常に臨戦態勢にあると言うことで、自分達のQOLを偽性にする必要があると思います。そういう点を考えると、高市首相の「馬車馬のように働く」という発言は、私としてはむしろ好感が持てるとすら思えてしまいます。

ゆとり、ライフワークバランスと言う物は、勿論学ぶべき部分もあるとは思いますが、若いある時期は、自分の生活を犠牲にしてでも必死に働く時期があってこそ、その後の人生に資する部分が大きいと思うのです。自分の限界を確認出来るようなほど働かなければ、大成することはないのではないでしょうか?
(大成してもいない自分が言うのもおこがましいですが)
ブラックな環境は排除されるべきでしょうが、ブラックな環境でもなくても、馬車馬のように働く必要があることはあります。

日本人が世界に誇れる物、あるいは世界が日本を恐れる物というのは何でしょうか?勤勉さだと思います。コツコツと努力を継続していける胆力だと思います。そういった部分をそぎ落とされれば、日本人としてのアイデンティティすら失われかねないような恐怖感を抱く今日この頃です。






2025年11月23日(日)

 散歩の楽しみ
投稿:長野 央希
私は、週三回程度、仕事終わりに水泳に行っております。水泳に行けないときやプールが休館日には、近所を散歩するのですが、基本的に業務終了後なので、20時とか21時といった時間になります。当然ながら、街灯はあるとはいえ、暗いです。月が出ていると、月明かりはこんなにも明るいのだと実感させられるレベルです。
先日、同じ場所を早朝に散歩したことがありました。明るいので、視覚的情報が多く、暗いと見逃してしまうような、花々の美しさに気を取られておりました。また、明るいあまり、いろいろな小道が目に入ります。暗いと、決まった道しか選択できないような感覚にとらわれますが、明るさのため、逆にいつも利用する道がよくわからなくなってしまい、結果的に近所で道迷いしておりました。もっとも、近所なので、遭難するようなことはあるまいという余裕をもってぶらぶらしていましたが、まるでよくわからない場所に迷い込んで、案外スリルを味わえました。

道に迷いながら考えました。
散歩は人生のようなものなのかもしれないという。

情報が限られた方が、進む方向性の選択肢が限られ、迷いにくい。一方で、情報量が多いと、選択肢が増えて、迷いやすい。情報も、様々で、でたらめの情報を真に受けたら、正しい道には戻れないかもしれない。道に迷ったと思っても、正規のルートよりも近道で、早く目的地に着く場合もある。
そう考えると面白いと思いました。迷子になりながら、すごい発見をした気になれました。(後々考えると、それほど大した発見でもないのですが)

散歩ではありませんが、山歩きにおいても人生の選択を思わせることがしばしばあります。
基本的に、私は雪山登山はしません。しかし、魚沼の山はゴールデンウィーク前後は、場所によっては、まだ残雪が残っております。膝くらいまでの雪が残っている場所では、辺りがまだまだ銀世界のようなところもあります。そうなると、自分の来た道と進むべき道がわからなくなることもあります。自分の足跡があれば、それが来た道であることは認識できますが、万が一吹雪いていたら、足跡は雪によってかき消されていきますので、自分のいる位置すら分からなくなり、パニックになるという恐れがあります。雪山の怖さの一つなのでしょう。
情報量が極めて少ない中で、自分の方向性を決めるということの難しさとリスクは人生でも同様であると思います。
情報が少なければ、迷う余地もないかもしれませんが、極端に情報がない場合に安易に方向を決めることは非常にリスキーであろうと思います。
逆に情報があふれれば、情報の海でおぼれ、適切な進路を決められない恐れがあります。

かつては、自分の仕事というものがすでに決められているケースが多く、自分の選択の余地はあまりなかったのに対し、今は職業選択の幅がある分、迷いも生じやすい。仕事についても、一つの仕事についても、他に適職があると思って、仕事を頻回に変える状況も見かけます。仕事の選択の自由が利かない時代に比べれば、はるかに幸せなことなのでしょうが、今自分の仕事が適職ではないと思っていても、頑張って続けていくうちに適職のように思えてくる場合もあります。頻回に仕事を変えることは、そういう可能性を摘んでしまっている場合もあるのではないでしょうか?
また、情報が多いということは、その分、間違った情報も多く含まれている可能性が高いため、情報の取捨選択を誤れば、大きく道を踏み外す恐れがあります。正しい情報を見つけ出す力量を磨くことも重要でしょう。

散歩をしていると、案外と普段考えもしないようなことが浮かんできたり、無心になれたりと、心がリフレッシュできるのが感じられます。


2025年11月13日(木)

 クマ騒動
投稿:長野 央希
ここ数年、クマのニュースが増えていると思っていましたが、今年は特にクマの目撃情報や、クマ関連のニュースが多いように思われます。
私は山歩きをするため、念のため熊除けスプレーを購入しました。ドイツ製のようで、説明書がドイツ語のため、今一つ理解が深まりませんが、何とか使用できそうです。どれほどのカプサイシンが含有されていて、それがどれほどクマに有効なのか?もっとも、これを使用する機会がないことを願っています。

私は、これまで北海道で一年働いており、また魚沼で計6年働いておりましたから、いずれの地でもクマの出没やクマによる事故は間接的に経験しておりました。北海道時代は、クマに殴られたという患者さんが、救急搬送されて来られました。私は内科系の当番であったため、直接治療に関与はしておりませんが、左顔面を殴られており、顔の半分がえぐり取られているような状況で、止血自体が困難で、最終的に札幌の病院まで搬送して治療していただいておりました。
一命はとりとめたものの、義眼となったという話を伝え聞きしました。あの時に、やはりヒグマは恐ろしいのだと痛感させられました。
ツキノワグマはヒグマほど大きくもないしと、やや舐めておりましたが、魚沼で自分が住んでいた住居から徒歩数分圏内の工場で侵入してきたクマに襲われ、指を切断するような重傷を負ったという事故がありましたし、その後もクマに襲われ重傷を負うケースがあり、ツキノワグマは小柄であっても、とても人間が太刀打ちできないのだと改めて学びました。

以前山歩きをしている際に、クマは臆病なので、鈴やラジオのおとで、クマは近寄ってこないという話を聞いていました。
確かに、魚沼の登山の際にはクマよけの鈴を鳴らしていますが、確かに一度も直接遭遇はしたことがありません。私は臆病なので、クマの新鮮な糞が落ちているのを見て、引き返したりしておりますから、そういったことが事故を防いでいるのかもしれません。
北海道では、登山中に双眼鏡ではるか遠くにクマが視認されたことはありますが、幸いにクマに脅かされたことはありませんでした。

クマのニュースが増えているのは何故なのでしょうか?クマの個体数が増加しているのか?クマのえさとなるような木の実の不作によるのか?クマが人間の生息域に行けば容易にえさが獲得できると学習したためなのか?
いろいろな可能性が考えられます。
今年は、確かにクマのえさになるブナの実が大凶作というニュースがありましたので、エサ不足はあるのでしょう?
ただ、クマが人里に行き、ゴミ箱をあさったり民家に侵入すると、すぐに食べ物が手に入るということを学習した可能性もあるように思われてなりません。
北海道の知床では観光客が安易にクマにえさを与えることが問題視されているようです。クマはヒトが食べ物をくれるということを学習しますからヒトを見れば寄ってくるようになります。それで、そのヒトがえさを与えなければ、そのヒト自体を獲物として襲う可能性も高くなりえます。野生動物がかわいい、かわいそうということで、やみくもに餌を与えることは現に慎む必要があるのでしょう。
クマは殺人を犯したくて人を襲うわけではありません。自分や子供の生存を確保するために、要は食うためにヒトを襲っているにすぎないのです。当然悪気もないのです。
クマによる獣害を減らすには、やはりクマと人間の接触を減らすほかはないでしょう。人里にいれば、エサが手に入ることを学習したクマは、当然効率的に餌を獲得できる人里に住み着く恐れがあります。ましてや人間は自分たちよりも弱いことを学習した個体は、容易にヒトを得御物としてみなし、襲うリスクが高まります。そういった場合は、やはり駆除するほかはないと考えます。麻酔銃で眠らせて山に返すというのが現実的にどれだけの人員を必要とし、どれだけの財源を要するのか考えた場合、かなり無理があるように思えます。
非情で残酷なようですが、ヒトが襲われないようにするには、舐められてはいけないのだといえます。
ただ、クマを駆除したからには、そのクマをジビエとして食べる、皮や油を活用するなどして、そのクマの生に対して最大限の感謝をささげるべきなのだと思います。

昨今は、「クマは凶悪なので全滅させるべき」や、逆に「クマがかわいそうだから殺すな」とか「クマの事故を避けるために、クマのいない場所に引っ越せ」などの意見を発信している人たちがいます。
「クマを全滅させろ」や「引っ越せ」という意見は、発信するのが恥ずかしいくらいの発言だと思うべきレベルではないでしょうか?自分の意見が絶対に正しいとして、その他の生活事情などへの想像力という視点が絶対的に欠如していると言わざるを得ません。

また、クマの駆除に自衛隊を要請するのも、それは違うのではないかと思います。当面は自衛隊や警察の力を借りざるを得ないかもしれませんが、若いハンターの養成をすすめていくべきなのではないかと考えます。

秋の深まり、冬の足音が急ぎ足で聞こえてくる時期、クマも冬眠にむけて活動が活発化することが想定されます。

里山を守る必要があり、そのために人間の娯楽のために自然を奪えば、最終的には人間に対してしっぺ返しがくるといいう自然の警告を受け止めて、いかにクマなどの野生動物と共存していくべきかを真剣に考える必要があるでしょう。



2025年11月6日(木)

 「嘘」が垂れ流される怖さ
投稿:長野 央希
最近、嘘や嘘とまでは言えないまでも、本当に事実なのかあやふやなことが、当たり前のように社会に流布しているように感じます。
嘘にもいくつかの種類があるでしょう。
相手のことを思っての優しい「嘘」と悪意ある「嘘」、保身のために積み重ねられた「嘘」、単なる勘違いや思い込みで発せられる「嘘」などなど。
一昔前までは医療業界でも、ガンの告知をせずに、別の良性疾患病名を告げている時代もありました。私が医師になったころには、できる限り本当の病名を告げることで、患者さんに病気と向き合っていただくことが望ましいという時代になっておりました。
かつては医療も未熟で、ガンの多くが不治の病のような印象があり、患者さんのショックを考え、病名を告知しないという流れがあったのかもしれません。
今も多くの進行がんはなかなか治療が難しいのは事実ですが、日々、明らかな医療の進歩もあり、患者さんにしっかり病名を告知しつつ、医療としてのサポートを十分行うことで、患者さんの闘病への気持ちを切らさず、患者さんと家族と医療者で病気と向き合っていくことが重要な時代になっております。こうした流れもあり、以前のように患者さんに「嘘」の病名を告知しない時代になて来ていると思います。
相手への配慮としての嘘は、必ずしも非難されるべきことではないかと思います。
しかし、昨今の情勢でそうではない「嘘」が垂れ流されている懸念を抱いております。
そういった「嘘」を分類すると以下のようになる気がします。
@純粋な勘違いや思い込みの嘘
A詐欺やペテンとして、相手をだますために自覚をもってつく嘘
B自己顕示欲として、目立ちたい、バズりたいという目的でつく嘘(自覚、無自覚を問わず)
C「嘘」を狂信的なまでに「事実」と信じこみ、それを周囲に広めようとする嘘(自分が信じている「嘘」が事実と思い込んでいるため、嘘をついている自覚はないと思われる。)
D自分の過ちを非難されないようにつく保身のための「嘘」

ある意味、@〜BDは根が深くないと思います。
@は理屈で説明することで、自分の考えが間違っていると矯正できます。
Aは理屈で、その発言は犯罪になるなどといえば、発言を撤回するか、姿をくらますでしょうから(別の新たなウソでペテンを働く可能性が高そうですが)
Bもバズらなかったり、周囲から猛烈なバッシングを浴びれば、すぐに発言を改めるでしょう
一番、病巣として根の深いものがCになります。
「嘘」を「事実」として信奉している人たちを見ていると、半分宗教のようにすら見える場合もあり、どんなにその考えが間違っていると説明しても、頑として自説を曲げないことが多いように見受けられます。しばしば、自説を立証せんがために、都合の良い「科学的エビデンンス」を寄せ集めて理論武装し、自説が正しいと訴えかけてきます。そもそも、自説に都合の良いエビデンスの寄せ集めをしている時点で、すでに科学的でないことを理解していないのだろうかと疑問に感じることがあります。
更に恐ろしいことに、「嘘」を狂信的に信じている人は、なぜかゆるぎない自信を持っているため、その発言が嘘にもかかわらずまるで事実であるかのような説得力を持って語るため、結果的にそれを信じる人たちが増えて行ってしまうのです。しかも、その嘘を発信していることは善意であって、悪意がないのがまた怖いことです。
医学の分野でも、ノーベル賞を取るような、その時代では絶対的な「事実」が後世に間違いであったと判明する場合もあります。それくらい、本当の真実を見出すというのは難しいことなのだと思います。
自分の考えとは別にいろいろな可能性がありえるのだと思う謙虚さが必要なのだと思うのです。
SNSなどの発達で、多くの人が自説を簡単に発信できる時代になっています。悪意のある嘘、悪意のないウソ、様々ではありましょうが、「嘘」の荒波に飲み込まれないためには、まずは各個人がその説が本当に信じていいことなのか検証する姿勢が不可欠なのだと思います。


2025年10月30日(木)

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