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 東日本大震災(4)
投稿:長野央希
3/15に起床すると、昨日同様、視聴覚室での朝のミーティングが行われます。業務連絡の中で、再び医師同士が、やり場のない怒りをぶつけあうようなシーンも見られましたが、こういう極限状態では、時に思いをぶつけあう方が、ストレスをためすぎないためにもいいのかもしれません。誰も経験したことのない極限状態で、最善の方針を打ち出すことは困難で、試行錯誤の中から、よりよい方策を見つけ出すという状況でしたから、震災発生から1週間はみんな手探りで、最良の方法を見つけ出そうとしていたといえるかもしれません。
その日は、病院の玄関前で、トリアージを行う任務を受けました。患者さんの状態を見て、重症度を判断し、重症度に応じて色分けし、それに対応する治療スペースに誘導するという役目です。
大概の方は、歩いて病院を受診されましたから、そういった方々は基本的にはトリアージの緑(軽症)となります。
そんな中で、津波で身動きが取れず、自宅にこもらざるを得なかった高齢女性が救急搬送されてきたケースもありました。足が不自由で、家から出られなくなっていたのですが、幸いに大きな問題はなさそうでしたので、ひとまず黄色のブースに行っていただきました。
最も、印象に残っているのが、3/11に被災してから、丸太のような木に乗って5日間海を漂流していた老人が、自衛隊のヘリコプターで救出され、そのまま石巻日赤に搬送されてきたケースです。自力歩行もままならず、隊員に両わきを抱えられ、何とか病院玄関においでになりました。全身ヘドロのようなものがこびりつき、海特有の匂いが強烈に印象に残っています。3月の海上ということで、非常に寒い中、よく生存できたと思えるほどの状態でした。低体温もあり、トリアージ赤のブースにお連れしました。海水を飲んでいたりということもあって、肺炎が合併していく可能性が高いことが予想されました。
その他では、玄関前で、亡くなったと思われていた石巻日赤の看護師が、無事であることを伝えに来院する場面もあり、また患者さん同士で、無事に再会できたことで、泣きながら抱き合っているような光景も目にしました。
中には、その日が抗がん剤の点滴の日で来院した方や、内視鏡検査の予定なので来院したという方もおられましたが、当然のごとく、この混乱状態で、予定治療や予定検査は出来ません。これを受けて、抗がん剤治療をされている方は、自分のがんが悪化していってしまうのではという恐怖を吐露されていました。確かに、未曽有の被災を被った地域で、安定して抗がん剤が供給されるようになるまで、あるいは病院として日常診療に戻るまでにどれほどの期間を要するのか、全く未知数であるため、上記のような不安を抱く人も少なくなかったと思われます。

この日は、気温も低く、30分程度でも屋外で働いていると、寒さが堪えるような気候でした。このような中で、生き延びた多くの被災者の方々に、敬意を表さずにはいられません。
昼過ぎまで、トリアージの仕事をしてから、夕方前に石巻を去り、埼玉への帰路につきました。その当時働いていた日赤で、私たちは第二班でしたが、既に第三班が被災地に向かっており、そういった兼ね合いで、任務終了となりました。


2021年3月12日(金)

 東日本大震災(3)
投稿:長野央希
巡回している避難所には、何人か妊婦さんもおられました。一人は、「おなかのはり」を強く自覚しておりました、幸い、私の医療班では看護師の一人が助産師であり、その方と相談し、切迫流産の危険もあると判断されましたので、巡回地から石巻日赤の本部に戻った際に、この妊婦さんの件を相談し、救急車を用意して、福島の病院に入院させてもらうことが出来ました。
あのような不幸な出来事の直後に生を授かるということは、とても感慨深いもので、何とか無事に生まれて、そして力強く成長してほしいと願わずにはいられませんでした。
その他、避難所では、診療の他に、避難している人たちの話をよく聞くのも一つの仕事でした。最も、印象に残っているのは、中年から初老にさしかかった男性の話です。その方は、津波の中奥さんとともに逃げていたそうですが、途中で大きな波にのまれ、目の前で奥さんが流されてしまったということでした。ここでは記載を控えるほど、目を覆いたくなるような光景であったということを涙ながらに話しておられました。目の前で肉親や愛する人が津波にのまれるのを目のあたりにしつつ、全く何もしてあげられないという無力感にうちのめされるという信じがたい事故に見舞われた辛さというものは想像を絶するとしか言いようがありません。こういった被災者の方々が、少しでも思いを口に出すことで、苦悩を和らげてあげることも救護の役目なのだと強く思いました。
その日は、石巻日赤からの要請で、埼玉から血液透析の回路の備品や蒸留水と、その他、不足しがちなおむつを持参し、病院にお渡しする仕事もありました。確か地下に薬局や備品庫があった印象があるのですが、そこで各備品をお渡ししました。この際に地下の広間のようなスペースが目に付きましたが、この広間では、シートにくるまれた御遺体が多数安置されていました。当時8年近く医者として働いてきましたから、望まなくても人の死と少なからず関わってきましたが、これほどの光景は後にも先にも目のあたりにすることはありませんでした。
被災者の方々や、石巻日赤の職員の方々に比べれば、自分等の疲労は、取るに足りないものであるとは思われますが、それでも、巡回から17時過ぎに戻ると、とても疲れていました。食事もままならないであろうと覚悟しておりましたが、幸いに避難所では炊き出しのおにぎりや桜餅を御馳走になりましたし、夜は病院内で、備蓄しているカップラーメンと干し芋をいただくことが出来ました。この時、カレー味のカップヌードルを食べましたが、寒いところから戻っているところでの、温かいカップヌードルというだけで十分心が満たされましたし、麺は完全に伸びていましたが、恐らく自分の人生で一番おいしいカップラーメンでありました。涙が出てきました。私の苦労など取るに足りないとはいえ、これが命の味なのかもしれないと思いました。
その日は、ミーティングを行った視聴覚室の部屋の角のところで、台車をたためば眠れるスペースがあったため、台車を片して、そこで眠りました。頭の上には大きなスピーカーがあり、余震の揺れのたびにスピーカーも揺れているのが見えました。これが落ちて来たら、生きてはいられないだろうと思いつつも、仮に落ちてきたら、即死であって、苦しむこともないだろうと、妙に腹が座っていました。それくらい疲れていたのもあるかもしれません。

2021年3月12日(金)

 東日本大震災(2)
投稿:長野央希
眠れたか眠れないかよく分からないような一晩を過ごすと、朝のミーティングのために視聴覚室と思われる大広間に集合いたしました。全国からきている日赤の救護班に加えて、DMATのメンバーもおり、本日の業務などの確認を行いました。この3/14でDMATは撤収するということでしたから、その日からは災害医療の現場は基本的に日赤の医療チームが主体になって診療にあたることになります。
朝のミーティングは、単なる業務連絡かと思いきや、石巻日赤の医師陣は、疲労のピークということもあってか、すんなりとした業務連絡に終わらず、災害医療チームのリーダーの医師に対して、公然と怒りをぶつけたり、文句を言うようなシーンも見られ、かなりピリピリしたムードに包まれていました。何とかその場もおさまると、具体的にどの医療班がどこに行くか等の振り分けが行われ、私たちの医療班は桃生地区の避難所を巡回する任務を受けました。三か所ほどの学校や公民館を巡回診療いたしました。前日までは津波で市街地も完全に浸水して、避難所までボートで行かなくてはならなかったという話でしたが、3/14は水もはけている部分も増えて、車移動が可能となっておりました。この桃生地区はやや山間の地域であったと記憶しておりますが、その分津波の被害をさほど感じなかった印象があります。小学校の体育館などが避難者の生活空間となっており、多くの人たちが段ボールなどで区画を分けつつ、家族同士身を寄せ合っているというような状況でした。
三か所ほど巡回し、概ね70人程度の患者さんの診療にあたりましたが、最も印象に残っているのが、津波の中何とか裸足に近い状態で逃げ延びてきた女子高生の方です。裸足で水の中を歩いてきたため、ガラスか何かで足を切っていました。傷自体はさほど重症なものではないのですが、震災の影響で上下水道とも機能しなくなっていましたので、当然水道も出ず、傷口を洗浄することも十分できないという状態で、持参している生食や蒸留水で、何とか毎日傷を洗浄するという処置が繰り返されました。傷をあまり清潔でない状態で縫合すれば、確実に感染を起こしてしまうため、傷の縫合は行わず開放したまま、洗浄し、抗生剤の内服のみを行っていただいておりました。この子の場合は傷の治療もさることながら、精神的なストレスで、発語が出来なくなっているということの方がより深刻であろうと考えられました。3/14時点では、この子の家族の安否すら確認できていない状態で、この年齢では考えられないような大きな心的ストレスを背負っていると言えます。
この事例は、もしかしたら、この東日本大震災のけがの典型的なものの一つと言えるかもしれません。災害の被災者の方は、津波を逃げ延びることのできた人は、概ね外傷は重症ではないこと、肉体的なダメージよりも精神的なダメージの方が大きいかもしれないこと。
その他では、着の身着のままで逃げてきたため、常時服用しなくてはならない薬が欲しいという患者さんが多数おられました。勿論、薬手帳などすべて紛失しているため、何の薬を服用しているかすら分からない状態でしたから、処方も非常に悩まされました。高血圧と高脂血症で薬を飲んでいますと言われれば、曲りなりの処方が出来ますが、御高齢の方によっては、自分が何の病気で治療しているかすら分かっていないケースがあり、どう処方すべきなのか途方に暮れそうなケースもありました。また、糖尿病でインスリンを自己注射していましたという方も複数おり、避難所で食生活も不安定になり、結果的に低血糖のリスクも高くなる懸念があることから、(低血糖よりは高血糖の方が、すぐに命にかかわることがないことも踏まえ)低血糖の起きにくい内服薬を処方して、何とか対応したのも強く記憶に残っています。
更に、何らかの疾患でワーファリンを内服している方への投薬も非常に悩みました。そもそも、ワーファリンを何mg内服しているかもわからない中、本来であれば、PT−INRという値を測定して、ワーファリンの分量を決めるところが、当然、そういった検査は全くできなくなっている状態でしたし、不規則な食事やストレスでワーファリンをいつもと同僚飲んだとしても、過剰に効きすぎてしまう危険もあり、バイアスピリンなどの薬剤でお茶を濁すしかない例もありました。

2021年3月12日(金)

 東日本大震災(1)
投稿:長野央希
東日本大震災から、ちょうど10年が経ちました。
この十年が速いと思う人もいれば、塗炭の苦しみで、あまりにも長いと感じた人もいるかもしれません。どのような10年だったかは、人によって異なりますが、復興に関わることや原発の問題など密度の濃い問題提起のなされた年月でした。
私は3/13〜15まで日赤の救護班として、宮城県石巻に行っておりましたので、その時のことを書いておきたいと思います。
個人的な話ですが、さかのぼって中越地震や中越沖地震の際に、私は都内の病院で働いておりました。特に中越地震の時には、関越道が大きく破損し、しばらく新潟に帰ることもままならず、震災で苦労している同胞のために、何一つ役に立てなかったことが、とにかく悔やまれ、何だか地元の人を裏切ったような罪悪感を抱き続けていました。そんなこともあり、東北で震災が起きた時には、その罪滅ぼしのような感情も入り混じって、救護班に志願いたしました。
2011年当時、私は埼玉県内の日赤病院で働いておりましたので、3/13に北埼玉から東北道を通って、仙台に向かいました。震災直後は、東北自動車道は車両通行止めとなっていたため、自衛隊車両と日赤車両の他は車が走っていない状況でした。そして、白河インターを過ぎたあたりから、高速の路面が陥没していたり、段差が出来ていたりと地震の爪痕を色濃く感じられるようになり、とても高速で運転できる状態ではなくなっていきました。何とか、仙台まで来たは良いものの、市街地は軒並み停電して、信号は完全に機能していませんでした。そして、宮城県庁に到着し、そこで到着報告と、任務の指示を仰ぎましたが、県庁の庁舎内は入り口を入ると、エントランスに所狭しと、布団やござを敷いて寝ている避難してきた人たちの光景が広がっておりました。階段の裏にも疲れ切って寝ている人がおり、本当にここが日本なのかと、目を疑うような状況です。県庁の会議室のような部屋が、対策本部となっており、そこでは県庁の職員や自衛隊員などが忙しそうに働いておりました。対策本部で石巻日赤に行くように指示を受けて、その足で石巻に向けて移動しましたが、高速もさることながら、下道も、段差ができていたり、倒壊した壁や塀で道路が遮断されていたりという極めて運転が大変であったと思いますが、日赤の職員の方々には無事に運転していただいて、改めて感謝いたします。話によると前日までは一面が水没していたということでしたので、それに比べると、車が走れただけ、水がはけてきていたということなのだと思われます。
14時に埼玉を出発し、石巻日赤に到着したのは、深夜の1時を過ぎていたと記憶しております。病院内も、エントランスからして避難してきた人たちが一面寝ています。病院の床は、水害の痕を示すように砂まみれでした。二階には、医局や視聴覚室がありましたが、その階段のところまで避難している人の寝床となっていました。二階は二階で、病院の職員や救護班が所狭しと、休息をとっており、廊下や図書室等、スペースがあれば、そこでスタッフが休んでいるという状況でした。
私たちの救護班では二名の看護師がおりましたが、到着するや、看護師は看護の手伝い要請を受けて、休息する間もなく手伝いに回っていきました。私や事務方は、ひとまず休息をとることが出来ましたが、当然寝るスペースなどほとんどなく、やむを得ず、院長室の前の廊下に布団を敷いたり、寝袋にくるまったりして、就寝しました。院長や副院長もみな泊まり込んでおられ、トイレなどに行く際に、我々のような廊下で寝ているものを踏まないように、気をつけて歩かれていました。

2021年3月11日(木)

 マインドコントロール
投稿:長野央希
福岡で5歳の子供を餓死させたということで、母親が逮捕されるという事件がありましたが、報道によれば、母親のいわゆる「ママ友」による恐怖支配からのマインドコントロールが事件の背景にある模様です。詳細は分かりませんので、無責任な批判は避けますが、亡くなった子供は本当に可哀そうでなりません。しばしば、犯罪の背景にこういった恐怖に基づくようなマインドコントロールが潜んでいるケースが認められます。洗脳されやすい性格の人もいれば、長期間にわたる恐怖や疲弊から洗脳を受けてしまうケースと様々ありましょう。
ただ、どの場合も、胸の悪くなるようなことや、大変後味が悪いことが多いような印象があります。
今回は、どうも、その「ママ友」による詐欺目的であるように見受けられますが、このように犯罪傾向の強い犯人によるマインドコントロールは、ある意味わかりやすい犯罪の構図と言えるかもしれません。
宗教(特に新興宗教の一部)によるマインドコントロール、洗脳も大きな問題に発展することがあります。教祖が、いわゆる詐欺師である場合には、当然、このような洗脳によって信者が犯罪に加担させられてしまう結果になります。一方で、教祖が、そういった犯罪傾向がなく、むしろ純粋に正義を貫くような「高潔な」精神の持ち主の場合も、決して安心とは言えないように見受けられます。というのも、教祖にとっての正義が、たとえどんなに立派な正義でも、社会通念上受け入れがたい、あるいはすぐには受け入れられないような場合にでも、教祖がそれを押し通そうとして、信者を突き動かせば、大きなトラブルにつながってしまうからです。教祖が純粋に世直しをしようとして、強引に行動を起こせば、その宗教団体と社会では大きな軋轢が生まれ、結果的に、犯罪行為が生じてしまいます。ただし、その教祖(あるいはリーダー)に同調する勢力が、極めて多数になれば、それは革命に発展し、その勢力こそがその国家や社会のリーダーに逆転してしまうでしょうが。ナチスのヒトラーが好例かもしれません。
マインドコントロールは使い方によっては、非常に有用です。自分自身が自信をもって行動するうえでは、自分自身にマインドコントロールをかけるようなことが必要になります。「自分なら絶対に出来る」という自己暗示のようなものです。
しかし、使い方を悪用すれば、痛ましい事件は今後も後を絶たないでしょう。そして、こういった洗脳は他人ごとではないことを理解する必要があります。自分も、その被害者になるかもしれないし、逆に加害者になるかもしれないのです。インターネットなどの媒体で、妙な言説が垂れ流され、その影響下で、他者や他団体を攻撃して傷つけるような状況も含まれます。
それを防ぐためにも、あふれかえる情報が、正しいのものなのかを自身で判断し、取捨選択する必要があります。また、その情報源となっている人が表に出ているのであれば、その人そのものが信頼に足る人なのかを見極める眼力を養う必要があろうと思います。もっとも大事なことは、そういった情報に安易に流されず、他力本願な面を極力少なくして、他者への依存度を減らすことが必要なのではないかと思われます。


2021年3月8日(月)

 心を置き忘れたくない
投稿:長野央希
私はこれまで、いくつかの病院で勤務をしてまいりました。
都内でも、北海道でも、埼玉でも、新潟の魚沼でも、基本的には地域の中核病院と言われるような病院で働いてきましたが、地域の中核病院と言っても、非常に診療の内容に幅があります。それは医師や看護師、コメディカルの人数によって異なるとも言えますし、その地域の病院の数にもよって異なるとも言えます。
大学病院のように、各医師が専門科のみの治療に専念する病院もあれば、専門科以外もカバーしなくてはならない病院もあります。
私は、長らく医師不足で医師派遣要請している赤十字の派遣医師として、派遣されていた経緯もあり、地域の中核病院と言え、とにかく幅広い診療を求められてきたため、それが当たり前ととらえていました。幅広く、色々な病気の治療にあたるということは、時に恐ろしいと感じることもありましたが、医師不足の地域では、目の前の苦しんでいる患者さんを前にして、自分がやらざるを得ないというような「腹が座る」ような状況になっていった記憶があります。
一方で、大学関連の地域中核病院は大学的なスタンスになるので、当該科以外を診るということは、日当直以外では求められませんでしたし、各医師とも、他科の疾患を治療することに強い難色を示していました。それだけ、各課の意思の人数がそろっているということで、患者さんにとっても、よりよい医療を提供できるという意味で、良いことだとは思います。しかし、自分の専門領域のみ診ると言うことは、自分の科の治療が終了すれば、後はどうでもいいというようなスタンスの医師も生み出してしまいかねないという結果になってしまいます。
私がいた血液内科というのは、非常に専門性の高い領域でありましたので、他科の医師が関与を控えたがるような面もありました。血液内科で治療する疾患は、白血病、リンパ腫、骨髄腫などの血液ガンや、再生不良性貧血、免疫性血小板減少性紫斑病といった疾患が主体になります。どの疾患も、抗がん剤や免疫抑制剤などの治療を行うため、治療自体が、しばしば苦痛を伴うことがあります。患者さんは、治りたいがために、そういった苦痛にも耐えて治療に臨んでいますが、残念ながら、時に治療の甲斐もなく、疾患が治らず、全身状態が悪化していってしまう場合もあるのです。治療がうまくいっている時は、治療者側も患者さん側も気分が良いものですが、一度治療がうまくいかなくなると、両者とも多くの苦悩にさいなまれます。殊に、患者さんの側では、不安や焦燥、不信などの感情がわいてくるものですが、そういった場合に医療者が患者さんにどう寄り添えるかが重要なのですが、医師によっては、自分は治療のみを行っていさえすればいいということで、患者さんの身になって物を考えることが出来ない者もいます。また、様々な治療を行って、病気が治らないうえに、ちりょうによる疲弊で衰弱して、自宅での生活がままならなくなるケースもあり、その場合は、療養型の病院への転院をお願いしたりしますが、この時、自分の医師としての無力感を感じてしまうものでした。治療として、いわゆるガイドラインに沿った治療を行っていても、自分の治療選択が正しかったのだろうか等の自問自答をしつつ、「自分のやるべき治療が終わったから、後はほかのところでお願いします」というのも、非常に心苦しく感じてきました。各病院の治療できるキャパシティの問題があるので、やむを得ないこととはいえ、自分はなんと無責任なのだろうと、自己嫌悪に陥ることもありました。
患者さんを病気のみ診るのではなく、患者さんを全体的に診ることのできる医師になりたいと思い続けています。医師である前に、一人の人間として、人間の心を持った医師でありたいと思っています。

2021年3月5日(金)

 包丁塚
投稿:長野央希
私は、都内や埼玉県内で働いている時に、しばしば赤坂にある氷川神社に参拝しておりました。赤坂と言えば、日枝神社が広大な敷地面積を有し、巨大な鳥居があり、有名かもしれません。一方の氷川神社は閑静な中にひっそりと建っているという趣で、個人的には氷川神社の方がお参りしていて、いかにも昔ながらの神社という感じで、好きでした。勝海舟が住んでいた家が近いということで、勝海舟と坂本龍馬の銅像が神社からほど近いところに立っております。
その氷川神社ですが、神社の境内の片隅に、包丁塚の石碑が目立たないように存在しております。この石碑が建てられてから、かなり日は浅いようですが、赤坂界隈の料理人などが長年使用した包丁を祀っているという意味で、極めて日本的な香りがします。古来から、日本で万物に魂が宿っているという感覚を持っていました。これは一神教的な発想からすれば、非常に原始宗教的と唾棄されてしまう思想であろうと思われます。確かに、自然や日常使用する物すべてを魂のあるものとして祀ることは、いわゆるアニミズムに基く、行動であると言えます。一神教的な価値観が支配的な現代の世界においては、原始的と言われてしまうかもしれませんが、この日本的な思想、行動様式は、極めて大切なことなのではないかと思われます。
世界は、19世紀の産業革命以降、大量生産、大量消費の時代となっていきました。戦争も、それまでの規模とは違い、一気に多くの人命が奪われるようなレベルになりました。その結果、人々は、今使用しているものがだめになれば、すぐに買い替えればいいと考えるようになり、合理的に「使える」人でなければ、容易に切り捨ててもかまわないと思うようになってしまっているように思えるのです。
科学的な根拠などはありませんが、物を大切にできるということは、愛用の物に対して、しっかりと愛着を抱くという習慣となり、人間に対してもそのような相手を敬うような思考につながっていくのではないかと、私は個人的に考えております。
宴会や食べ放題などの店に行くと、大幅に食べ物を残していく風景が日常茶飯事となってしまっていますが、牛や豚や魚が、残飯になるために殺されたのだとすると、彼らも全く浮かばれないだろうと、とても悲しい気持ちになります。(最近は猫までもが、飽食でキャットフードを残してしまうような時代ですが)
来る将来、地球規模で食糧不足に陥る可能性も指摘されておりますが、そういう時代になる前にこそ、日本的な「包丁塚の精神」を思い出して、今自分が生きられていること自体がとても有難いことなのだと考えたいものです。すべての物に魂が宿ると考えると、「お天道様に顔向けできないようなことはしないという」恥の文化にもつながり、感謝の心を持つということにもつながっていくのだと強く思います。
日本的な発想が、地球の延命にもつながるのではないかと思いますし、世界に向けて、もっと堂々と発信していくべきなのではないかと思っています。

2021年3月1日(月)

 起立性調節障害
投稿:長野央希
先日、新型コロナの感染流行以降で、起立性調節障害(OD)の学童が増えているのではというような内容の記事を読みました。
起立性調節障害(以下OD)というものは、起立時にめまいや動機、失神などが起きる自律神経系の病気と言えます。思春期に多く、これによって不登校の原因となることもしばしばあり、ある統計では不登校の2/3がODに悩まされているともいわれております。
通常であれば、起立時には交感神経が働くことで、下肢の血管を収縮させ、心臓への循環血液量を増やすように作用し、結果的に失神などの問題が生じないようになっているものの、交感神経系の働きが低下してしまうと、血圧低下、脳血流の低下が引き起こされてしまいます。
原因としては、発育に伴う自律神経系の乱れ、脱水、運動不足、精神的ストレスが挙げられますし、半数で遺伝傾向があるともいわれています。
勿論、これによって死ぬような病気ではないですし、朝に上記のような症状が出やすいものの、昼以降は、状態が改善するという特徴もあり、その結果で、これまでは怠け病のような見方をされることも少なくなかったと言えます。しかし、ODに悩む方は、学校に行きたいのに、それが出来ないという深刻な苦悩の中にありながら、なかなかよき理解者が得られなかったというのが現実です。
更に、薬物治療で改善することは期待しにくいという特徴もあります。従って、治療法は、日常生活の習慣やリズムの改善が最も大切となります。頭を下げて、ゆっくり起立する、長時間の起立を避ける、筋力とぃかを防ぐために一日30分程度の散歩をする、脱水にならないように一日2L程度の水分と10g程度の塩分を摂取するようにする、早めに就寝するなどのことを心がける必要があります。また、精神的なストレスがあることが明らかならば、そのストレスを軽減できるようにコントロールすることも重要になってきます。
確かに、コロナ流行で、緊急事態宣言が出れば、自宅にこもらなければならなくなり、友人との交流も制限される上に、運動不足にもなります。子供はタフとは言え、このコロナ下という先行きが見通せない現状で、大人が不安を抱けば、当然、その不安が子供にも伝わりますから、大人以上に恐怖や不安を感じることにもなります。子供は学校などに行けば、子供たちなりの社会があります。大人が介入できないような社会、大人に介入してほしくない社会があります。そんな社会生活が送れないことで、更に精神的ストレスが強まることもうなずけます。結果的にODが起きやすくなっているのかもしれません。
一朝一夕で、現状の社会不安が解消はされませんが、ODというものへの理解を持つことが、大切であり、それによって子供との絆も深まるのではないかと思います。

2021年2月26日(金)

 春の訪れ
投稿:長野央希
ここ数日は大分暖かく、過ごしやすい陽気となっております。依然として、海風は激しいものがありますが、屋外で発熱外来を行っている身とすれば、暖かいだけで、仕事の苦痛が大幅に緩和されることを強く実感しています。この暖かさの中で、木々の芽生えなどもあるのでしょうか、いかにも春めいた風の香りを感じました。この香りを感じると、待ち望んでいた春の訪れが近いのではと思わせられます。しかし、同時に春というのは別れの季節でもあり、うきうきした気分に混じって、別れを予感させる胸の疼きのような感覚も生じてきます。学生時代であれば、春は組替えや、卒業のシーズンであり、働くようになってからは、異動の時期でもあります。仲の良い同僚が去って行ったり、あるいは自分自身が去っていったりということもあり、春めいた景色や匂いは、時にもの悲しい気持ちにもさせられます。
もっとも、昨年の3月は引っ越しや職場の異動などもあり、全く、そんなセンチメンタルな感情もわかず、至極バタバタしていた記憶しかありませんが。
この陽気で、もうすぐに春が来るような錯覚に陥っていますが、また明日から寒くなるようです。魚沼では雪マークになっていますので、まだまだ冬が終わらないのだと思います。明日も魚沼に行ってくる用事がありますが、降雪量もどうなりますか?二月末ともなってくると、流石に降る雪の量もだいぶ減ってくるとは思いますが。今年は雪が多いことで、多くの人への影響もありましたが、同時にイノシシにも大きな影響があった模様です。
十日町で、雪かきの途中でイノシシに襲われた方がいらっしゃいましたが、その後も新潟県内ではイノシシによる被害が例年よりも大分多いとのことです。というのも、そもそもイノシシは冬眠をしないこと、足が短いために積雪量が多いと、除雪がなされる市街地まで下りてきてしまうこと、平地に下りてはきたが、雪かきによってできた雪壁を越えられずに、山に戻れなくなってしまうことなどが影響しているのではというのが専門家の見解です。また、昨年、一昨年が雪が少なかった分、イノシシにとって冬が過ごしやすく、繁殖が進んだことも影響しているのではないかという話もあります。魚沼をはじめ、新潟県内はここ数年クマの目撃情報が多いのですが、イノシシも負けず劣らず、数が増えているようです。また、かつての様に里山というものが減って、山と人間の生活区域が接するようになったことも、このような野生動物に遭遇する機会を増やしているのだと思われます。どうやって野生動物と、平和的に共存できるのかを考える必要もあるのだと思います。

春は確実に近づいてきましたが、暖かくなることで、雪解けによる雪崩等の問題も増えてきます。気を引き締めていきたいものです。

2021年2月22日(月)

 地震の痕
投稿:長野央希
2/13の23時過ぎに福島沖を震源とするマグニチュード7.4の地震がありました。新潟県内でも、震度4程度の比較的長い揺れを感じる地震でした。
福島や宮城の方々は、10年前の震災の時の記憶がよぎったのではないかと思われます。不幸中の幸いで、今回はさほどの津波が起きずに、水難事故は起きてはいませんでしたが、それでも地震そのものにより100人強の人がケガをされているとのことです。報道で見る限りでは土砂で道路が完全に遮断されているような光景も見受けられましたし、東北新幹線は運行再開に10日程度かかる可能性があるとのことです。
私は、東日本大震災の際に3/13〜15まで赤十字の救護班で、宮城県の石巻に行ってきました。この時期は、ひっきりなしに余震があり、揺れに慣れてしまったのか、震度4程度では、さほど驚かなくなってしまった記憶があります。避難所に避難している人たちの中には、多数の子供もおりましたが、彼らも避難所のグラウンドでサッカーなどに興じていても、頻回な余震を気にすることもなく、遊びを続けていたのが強く印象に残っております。あの時の震災は地震そのものによる被害よりも、津波での水による被害が甚大でした。私が3/13に石巻に行った際には、街中が水浸しで、もともとの市内の風景を知らない人からすれば、町全体が貯水池なんだろうかと思うほどでした。
そういう意味でも、今回の夜間の地震で、津波が来なかったことは、本当に良かったと思えます。10年前は昼に地震がありました。同じような地震が夜間に起き、しかも同じ規模の津波が夜間に起きれば、当然非難する人たちの移動には大きな障害が生じることは明らかであり、その被害も更に大きなものになることは想像に難くありません。
やはり、天災には勝てないことを痛感しつつも、冷静に事後処理にあたることが重要であろうと思います。そして、何よりも重要なことは、無責任なデマのような情報を流さない、あるいはデマを容易に信じてしまわないように注意することだと思います。コロナ禍でも浮き彫りになっておりますが、ネットでのくだらない偽情報や、まことしやかな噂でも、何の根拠もないようなでたらめ情報が無責任に垂れ流されてしまうのが現代社会です。また、匿名性を利用して、非常に心無い内容を発信しているケースも少なくありません。天災の後には、必ずと言っていいほど、こういった類の悪質なデマが流されます。こういった情報で右往左往しない冷静さを持つことも極めて重要だと言えます。
自然災害の痕は、何も我々の生活への物理的な破壊にとどまらず、精神的な部分での破壊としても色濃く残ります。厄災の痕は、社会全体が協力し合わなければ、埋められないと思います。そのためにも、人々の間に不信の念が満ちてしまうことがないようにする必要があると思います。

本日からと東北は荒天となるようですので、地盤が緩み、更に土砂災害などが起きやすくなると思われます。くれぐれもご注意いただきたいと思います。

2021年2月15日(月)

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