精神科用語 |
投稿:長野央希 |
最近、日常の会話でもネットなどでも、精神科用語が使われているのをしばしば耳にしたり、目にしたりします。 少しでも異常性のある殺人事件の犯人をサイコパスと言ってみたり、変り者や、行動が他と違うような人をアスペルガー障害を略した「アスペ」と呼んでみたりすることが非常に目につき、違和感を感じています。 また、かつての心に負った傷(少々のものまで含めて)を「トラウマ」と称していたりするのも、よく見る風景になっている感がありますし、その結果、不思議な自称PTSDもやたらと見かけてしまいます。 精神科の用語にもしっかりとした定義があります。ただ、その診断基準などが、身体疾患のように検査の数値や画像検査などによって明確に目に見える形で異常をとらえられない分、時に定義があいまいに感じられてしまうのかもしれません。結果的に医療者以外の人たちにとっては、日常で取り入れやすいと感じて、誤用されてしまっているように思われます。 しかし、この問題は医療者の中にもよく遭遇するものです。 残念ながら、精神科領域に関して苦手意識を持っていたり、関心を示さない医療者が少なくないのが現状です。そのために医療者の中でも精神科的用語に対する理解が乏しいと言えます。 その逆に、精神科医療に携わる医療者が、身体的問題に苦手意識を持っていたり、身体的問題に関心を示さないケースも、しばしば見てきました。 精神科と一般科で大別している病院もありましたので、精神科とそれ以外の身体科との間には溝ができてしまう場面も経験しました。 私は、もともとが精神科志望であったこともあり、内科医となった現在も精神科の治療やトピックスには関心をもっています。精神科で働いていたこともあり、こういった溝を埋める方法がないものかと考えていましたが、非常に難しいと感じたのも事実です。 医療関係者が苦手意識を持っていれば、当然医療関係者でない人たちも、精神科というものへの理解が深まりにくいと言えます。 用語の誤用の問題も、結果的に精神疾患を抱える人たちへの偏見を強めてしまうのではないかという懸念を抱かざるを得ません。 人間の多様性を謳う現代社会において、これまで無理解という壁の中で苦しんできた精神科の患者さんをどのように受け止めて、偏見のない社会生活を送ってもらうか考えるべきなのだと思います。 |
2020年9月23日(水) |
心の余裕 |
投稿:長野央希 |
先日、よく行く居酒屋の大将が、体調を崩して緊急入院されました。幸いに10日ほどで退院されて、営業も再開できるようにはなっておられますが、緊急入院した日に、お店に予約を入れていたお客さんに、キャンセルのお願いの電話をされたそうです。大半のお客さんは、大将の体調を気遣い、キャンセルを快く受け入れてくれたようですが、ごく一部では「体調管理もプロとしての当然の義務だろう」といった主旨から、キャンセルに対して激怒されていたという話を聞きました。 こういった人は、想像力が欠如しているのだろうかとも感じてしまいます。自分は病気やケガとは無縁でいられると考えているのでしょうか?そもそも、どんなに体調管理をしていても、不可抗力の様な形で、病気になったり、けがをしてしまうような事態はありえます。血液疾患などは、大概が青天の霹靂の様な状況ばかりです。 私は落語が好きで、特に5代目古今亭志ん生をよくCDで聞きますが、彼は酒を飲んで高座に上がることがよくあったようです。(今の時代では、それ自体叩かれそうですが・・)寄席の高座でいねむりをしてしまったときに、弟子が起こしに行こうとすると、お客さんが「寝かしておいてやれ」と言い、客席の爆笑の中、眠り続けたという話があります。お客さんの実に粋な計らいと言えます。心のゆとりのある時代だったのでしょうか? 少し前までの日本は大変貧しく、ほんの一握りの人たちしか、欲しいものを手に入れることがかなわない時代が長かったと言えます。更に、貧富の差に関係なく、大半の病気は治す術もなかったと言えます。要するに、日本人の多くは耐え忍ぶことに慣れていたのだと思います。戦後の高度経済成長を経て、多くの人が色々なものを好きなように手に入れられるようになって、忍耐力という面では大きく退化してしまったように思われます。その結果、自分の思うようにいかない事態があると、怒りを爆発させてしまう人が増えてしまっているのかもしれません。 また、欧米的な合理主義、効率主義や大量生産大量消費といった概念が人間の心性にゆがみを生じさせているのではないかと考えてしまいます。合理的でなかったり、効率的に物事が遂行できない場合、無能な者とレッテルを貼られ、他にいくらでも交換要員がいるのだという脅しの中で、日々不安を抱きつつ生きていれば、精神的に摩耗してしまうのではないかと懸念しています。 科学の進歩で、未だかつてない便利さを享受している一方で、科学の進歩に足並みをそろえられない人間の精神は、悲鳴を上げつつあるような恐ろしさを感じてしまう今日この頃です。 |
2020年9月18日(金) |
口腔ケア |
投稿:長野央希 |
私は、以前血液内科の医師として勤務しておりました。血液内科疾患の患者さんは、血液疾患そのもののためと同時に、抗がん剤やステロイド等による治療によって、免疫の低下している方が多いと言えます。 そのため、自分の上司も口腔内のケアの重要性について、盛んに患者さんへ説明しておりました。 口腔内のいわゆる雑菌と呼ばれるものは500〜700種類も存在しているといわれます。代表的な物でも、黄色ブドウ球菌、緑膿菌、肺炎桿菌、インフルエンザ菌やカビであるカンジダなどそうそうたる顔ぶれと言えます。 通常では、無害な菌も、免疫不全状態になれば、宿主に牙を向いてくることがあります。強力な抗がん剤治療を行ったりすれば、口腔内や腸管の粘膜障害から、常在菌が感染を引き起こす場合もあれば、口腔内菌による不顕性誤嚥から肺炎を生じたりすることもあります。 そのため、血液疾患で強力化学療法を行うような場合には、齲歯(虫歯)も含めた口腔内菌や、痔が時に重症感染を引き起こし、命取りになりかねないため、それらの管理が極めて重要と言えます。 口腔ケアには、いわゆる歯磨きもさることながら、舌ブラシでの舌のケアも大切と言えます。このことも、先述の上司がしきりに患者さんに話をされておられたのが印象に残っております。 先月か先々月にイソジンが新型コロナに良いというような報道がされておりましたが、イソジンがコロナに有効というよりは、口腔内を清潔に保つことで、口腔内菌による二次性肺炎を予防できるだろうということなのではないかと思われます。 腸内細菌フローラと肥満や糖尿病との関連なども指摘されるようになってきた昨今、これまで軽視されてきた体内の常在菌が少しづつ注目されてきております。我々人間を含めた生物は体内の常在菌と共生しています。これらの多種の常在菌とよりよい関係を築くことが、ある意味健康でいられることの秘訣と言えるのかもしれません。 |
2020年9月14日(月) |
当たり前のこと |
投稿:長野央希 |
私は、この15年、欠かさず、夏季休暇を利用して、広島にカープの応援に行ってきました。今年も、9/8に対ヤクルト戦のチケットを購入しておりました。しかし、思いのほか、勤務医時代よりも休暇を取ることがためらわれる事実に気づき、同時に今年はコロナ禍も鑑みて、広島行は断念いたしました。カープが全くエンジンがかかってこず、調子が上向かない現状で、カツを入れてやりに行こうと思っていましたが、大変残念です。例年であれば、広島に野球観戦をして、翌日に厳島にわたり、厳島神社参詣の後、島内の弥山という山に登山をしてから、瀬戸内海の幸を食べ、そののち足を延ばして由布院の定宿で湯治をするのが定番なのです。大分は魚介も肉も、焼酎もおいしいので、そこで一泊をして、時間に余裕があれば、レンタカーで九州巡りをしたり、奈良に行って、古墳・神社巡りをしたりしてから、鎌倉で鶴岡八幡宮参拝して、頼朝公のお墓にお参りをしてというのも、好きなりょこおうコースであります。それらを含めて、今年は取りやめました。 コロナに関して、どこまでの移動制限をするかは、今尚、議論の余地の残るところですが、医療従事者として、患者さんが嫌がるようなことは極力避けなければならないと考えております。 このように当たり前の旅行すらままならない状況が続いております。 当たり前のことで思い出すことがあります。東北の震災で3/13に石巻に行った際には、避難所では上下水道とも機能がマヒしておりました。我々にとって、日常では上下水道は、当たり前すぎて、何とも思わないレベルの物ですが、実は当たり前のことではなく、色々な人の管理の賜物なのだということに気づかされました。上下水道は衛生や健康維持の根幹にもなってきます。こういった、当たり前ではないのに当たり前のように享受できる幸せを、かみしめていく必要があるのだと思います。 コロナ禍で、色々と日常生活に変化が生じておりますが、改めて、謙虚に自自然も含めたすべてのものに感謝の念を持つという日本古来の伝統的な思想に立ち返りたいものです。 |
2020年9月11日(金) |
台風一過 |
投稿:長野央希 |
先週末から今週頭にかけて、台風10号が、記録的な強さを保って、九州に上陸し、甚大な被害をもたらす可能性があると報じられてきましたが、被害の出た地域があったものの、不幸中の幸いで、報道ほどの被害は免れました。 とはいえ、台風シーズンの本番はこれからとも言えます。 昨年はラグビーW杯の期間中に、台風による大雨の被害が著しかったことは記憶に新しいところではあります。 最近は地球温暖化の影響もあってか、梅雨の雨量や台風の規模が常に記録的な状況となっています。地球の温度の高い状態が持続すれば、こういった「記録的」な大雨や台風は常態化していってしまうのではないかと懸念せざるを得ません。 今月、来月は、引き続き台風への備えをしっかりしていくことが必要かと思われます。 また、日本全体としても気温が高くなってきている点で、基本的に台風の影響をうけない北海道も、今後は台風と無縁というわけにはいかなくなるかもしれません。 台風被害、大雨被害は、日本全国で起きえる事象と考え、防災に取り組む必要があります。被災した場合に、我々医療機関もどのような協力ができるかを考えつつも、行政などとも密な連携をとって、転ばぬ先の杖としての対策を講じておく必要があるものと思います。 |
2020年9月9日(水) |
浄福を得んがためには、各々その流儀あるべし |
投稿:長野央希 |
タイトルはプロイセンのフリードリヒ大王が述べた言葉です。 信教の寛容を示した言葉として独語辞書に載っていたりします。 先日、フランスのシャルリー・エブドという雑誌がイスラム教のムハンマドを侮辱するような風刺を載せて、すごい売れ行きであるという記事がニュースになっておりました。この風刺雑誌は、以前から、ムハンマドを冒涜するような記事を載せて、襲撃にあったりしていました。 襲撃自体は許される行為ではありませんが、彼らの載せている記事も、表現の自由で片付けるべき内容なのか、甚だ疑問を禁じ得ません。 私はイスラム教徒ではありませんが、イスラーム文明、文化には興味があり、多少勉強していたこともありました。 表現の自由と言って、他人の家族や親類を公然と馬鹿にして良いものでしょうか?馬鹿にされた側になってみて考えていただきたい。イスラム教徒にとっては、父母を超えるほど尊敬してやまないムハンマドを、他教徒が侮辱するべきではないと思います。表現や信仰の自由を、はき違えている人が多いように思えてなりません。 そもそも、件の雑誌が毎年のように挑発的な行為を繰り返しており、マカロン大統領からも表現の自由を守るものとして称賛されたりしましたが、こういった背景には白人の帝国主義の名残としての差別意識が透けて見えるようで、大変不愉快に思います。自分たちが植民地化し、虐げ、搾取してきた地域の人たちを軽んじても、恥ずかしいと思わない心性があるように見受けられます。(本人たちは差別意識が根底にあることにすら気付いていないかもしれませんが) それこそ、今年は時に過剰とも思えるくらいに、差別を糾弾するような出来事が多くありました。そんな中で、「表現の自由」の名のもとに、多くの人を不快に思わせる内容、差別的な内容を述べ立てる白人的傲慢さが無くならない限りは、永久に差別はなくならないだろうと思います。 |
2020年9月7日(月) |
猛暑の中で |
投稿:長野央希 |
昨日は近づきつつある台風の影響もあるのか、フェーン現象で、新潟もひどく暑い一日となりました。魚沼では、所により40℃まで上昇しておりました。溶けてしまいそうなほどの暑さにうんざりしていると、また、車中での子供の熱中症死のニュースがありました。 高松市で車中にいた6歳と3歳の女児が亡くなったということです。昨日の高松市の最高気温は36.6℃であったということですから、車中の温度がいかばかりであったかは想像するに難くはありません。 子供を車中に残した母親が、どのような用事で、どれほどの時間車を離れていたのかは報道されていないため、無責任に母親を非難することは控えます。ただ、車に残った子供たちのことを考えると、いたたまれない気持ちになります。 想像してみましょう。 車に残された子供の気持ちを。最初は、すぐに母親が戻ってくるだろうと待っている。一向に戻ってこないことから、不安や恐怖に襲われる。元気なうちは、泣きながら、車の窓を叩いていたかもしれません。6歳の姉の方は3歳の妹を気遣っていたかもしれない。そのうち、高体温で脱水も進んで、泣く余力もなくなり、絶望感の中、徐々に意識がなくなっていく。どれだけ、辛かったか。 あるいは、想像してみてください。もし自分が、その車の前を通りかかった時に、窓を叩いている子供がいるのを目撃してしまったら。車には鍵がかかり、開けてあげられない。警察や救急車を呼んでも、すぐに来てくれないうちに、子供が力尽きていく一部始終を見てしまったら。自分の無力感を呪いたくなるかもしれない。 また、もし自分が、その当事者で、車中に子供を置いていった親であったらと想像してみましょう。自分が子供を死なせてしまったという自責の念と後悔の念を抱き続けつつ、家族や親類、社会からは白眼視される一生を送らねばならない。 ちょっとした油断やミスが、これだけ大きな結果をもたらしてしまうのです。そして、こういったことは、他人事ではなく、常に自分も当事者になりえるということを想像して、どうしたら、ミスを未然に防げるのかという対策を一人一人が講じていかねばなりません。 二人の幼い命に関しては、御冥福を祈りつつ、こういった事故(場合によっては事件)がこれ以上繰り返されないことを切に願います。 |
2020年9月4日(金) |
日本人のと特質 |
投稿:長野央希 |
私も色々な病院で働いてきました。東京、北海道、埼玉、新潟と様々な経験をさせていただきました。 地域によっての特徴の差はありますが、一般的に言って、多くの肩書を持つ医者は、その人のレベルがどうあれ、一目置かれる傾向があります。この傾向は都市部でかつ年齢が下がると弱まり、地方の高齢者になると、この傾向が強まる印象があります。 同じ医療を行っていても、部長だの院長だの博士だの肩書があったり、医師の年齢が上になれば、患者さんからより一層有難がられることがあります。 そういう意味で、日本人(どこの国でもそうかもしれませんが)は権威者に弱いという特徴があるように思われます。権威者が言うことは絶対の様に感じてしまう人も少なくないと言えましょう。医師の中でも、そういった面がしばしば見られます。勤勉な意思は、多くの論文を読みます。より権威のある論文雑誌や権威のある著者の言うことを、不可侵のものの如く有難がる人がいます。その道の大家の言うことなので、正しいことが多いのは間違いないとは思いますが、こういった権威者信仰の様な姿勢はいかがなものなのだろうと考えてしまいます。かつて、ガリレオ・ガリレイは医師を志していましたが、来る日も来る日もアリストテレスやガレノスの著書を盲目的に読まされることにうんざりして、医師の道を諦めました。権威者の著述をやみくもに覚えることは、いわゆる学校秀才にとっては、最も得意とするところではありますが、ガリレオの時代の医学の姿勢とあまり大差がないように思えてしまいます。 また、日本人はブランドに弱いとも言えます。これも、権威に弱いのと通じる部分があると思われます。ブランドと言いうだけで、その縫製がどうか、丈夫さがどうか、デザインがどうなのかなど、あまりこだわらずに、高額を払っている人たちがいます。 有事においては、上の者が言うことに、盲目的に従属し、猪突猛進にことをすすめることが大切な場合もありますし、こういった姿勢が日本の高度経済を推し進める原動力になってきたとも言えますが、平時には、色々な物事を自分の五感で感じ、時には疑問を呈することも重要なのではないかと思う今日この頃です。 |
2020年9月2日(水) |
新型コロナ |
投稿:長野央希 |
依然として、連日のように感染者が何人、どこそこでクラスター発生などのニュースを見ます。 同様にすこしずつ、研究機関によるコロナウイルス関連の研究成果も発表されるようになってきております。 先週には、大阪大学による報告で、新型コロナウイルス(COVID−19)は早期にサイトカインのIL-6が血中で増加し、ここから血液凝固を促進する分子であるPAI-1を放出する結果、肺炎の重症化やDICなどの重症病態を惹起しているということがわかってきました。 これまでにサイトカインストームを抑制する目的で、関節リウマチやキャッスルマン病などの自己免疫的な疾患に使われるトシリズマブ(アクテムラ)が使用され、有効性が確認されておりましたが、上記の報告からもIL-6阻害薬であるアクテムラが新型コロナの重症例に有効である機序が再確認されたと言えます。 一方、香港から新型コロナ感染から回復した男性が、4か月半を経て、再感染したという報告がありました。二回目の検査では一回目の検査とは異なるコロナウイルス株であったということであり、今後、集団免疫が獲得されても、COVID-19の感染が継続する可能性がありえると言えます。 また、ワクチンがどこまで有効であるのか、さらなる検証が必要であろうと思われます。 分からないことが多いために、徒に不安が増強されてしまっており、それによりうつ気味になってしまったり、ヒステリックに反応してしまう傾向があります。そう言いう意味でも、少しづつとは言え、徐々に色々なことが分かってきていることが極めて重要であります。 コロナそのものから健康を守ることも重要であり、同時にコロナに関わって生じている社会の歪みを、少しでも解消していかねばならない時期にあると思います。 |
2020年8月31日(月) |
いじめ |
投稿:長野央希 |
吉田裕著『日本軍兵士』を読みました。 先の大戦末期は軍紀の乱れも著しく、古参兵が新兵に対して、軍人精神の注入ということで、拷問の様な私的制裁が行われている例が少なからずあり、時には死亡事故にまで至ることもあったようです。その際に事故のあった班の分隊長から軍医に対して、検死内容の改ざんを依頼されるケースもあった模様です。軍として、私的制裁を厳禁していたものの、下士官や下級士官が見て見ぬふりをしていたりと言いうこともあったようです。 これを読んで、何年か前の相撲部屋の「かわいがり」の結果で亡くなった若手力士の事件を思い出しました。 戦前、戦中の悪しき伝統が、一部の業界では脈々と生き続けてきたのだなと感じましたが、流石に現代では、そういった悪習は徐々に排除されてきてはいると信じています。 いじめにも様々あり、身体的ないじめから精神的ないじめ、はたから見ても、間違いなくいじめとわかるものから、傍目ではいじめなのかじゃれあっているのかもよく分からないものまであります。 私は横浜にある高校にいたため、寮に入っておりました。入寮して一か月ほどしたところで、寮生の一人の両親が「息子がいじめられた」と怒鳴り込んできて、結局その生徒は退寮していったという事件?がありました。 私は、その生徒とそれほど接点がなかったため、挨拶や軽く会話する程度の関係でしたが、とてもいじめられているようには見えませんでした。実際、いじめの内容は妙なあだ名をつけられたということだったようです。 いじめていたとされる生徒たちとも、後日仲良くなりましたが、とてもいじめをするような連中でもありませんでした。恐らく、無邪気に友人とじゃれあっているような感覚で、あだ名をつけていたというのが実情だったのであろうと思われます。この時に学んだことは、被害にあった側が「いじめられた」と感じれば、そこにいじめが成立するのだということです。 これはセクハラやパワハラ、ひいては差別にも言える話であろうと思います。 昨今では、ネットでの書き込みがいじめに発展していく場合もあり、何気ない生活の中で、突然自分がいじめの被害者にも加害者にもなってしまいうると言えます。 残念ながら、いじめも差別もこれまでなくなった試しがありません。 だからこそ、常に自分や身内や友人がいじめの当事者になる可能性を考えて、自分がその被害者になったらという想像力を働かせて、いじめの問題を考えていかねばならないのだと思います。 |
2020年8月29日(土) |