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「学歴社会」に思うこと(2) |
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投稿:長野 央希 |
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今や大学の数が増えて、このままいけば大学全入社会になるのではという勢いであったりするようですが、その点も疑問を感じています。 そもそも、大学というものは研究する場所であり、専門的な高等知識、技術、資格を習得するべき場であるはずなのです。 就職するための予備校でもないし、見栄を張るための場所でも、仕事をしたくないから時間稼ぎとしているべき場所でも断じてないと思っています。 これをやりたいという具体的なヴィジョンがなくても、漠然としてでもいいからこういったことを学びたいという、学ぶことへの貪欲な意欲があるべきなのだと思っています。 やりたいことが見つからないから、とりあえず大学に行くというくらいなら、むしろ放浪の旅をした方が、はるかに有意義な時間が過ごせるのではないかとすら思っています。放浪しているうちに、自分を見つめ、自分が何者なのか、何がしたいのか見えてくるかもしれないですし、まるで知らない地域で、知らない人たちと触れあうことから得られることも大きいはずです。そこで、自分はこうした仕事をしたい、こうしたことを学びたいと考えて、大学進学を志すのは大いにありだとは思います。 また、昨今は就職に有利だから、ある大学群に行くというような人もいるようで、その大学なら学部は問わないため、入りやすい学部を選択して受験するというようなこともあるようですが、それも本来の大学の在り方から大きく逸脱しているように思えてなりません。 こういった考えは、結果的に大学の価値を貶めていくことになるのではないだろうかと思っています。 そもそも、大学卒というものになぜ価値を置くのか、わからないのです。 いわゆる良い大学を出ていても、愚かな人は愚かですし、大学に行っていなくても、賢い人は賢いのです。 戦前の帝国陸、海軍の高級軍人は基本的に学歴エリートでした。しかし、彼らは結果的に亡国の危機に瀕するまでに国を傾かせてしまった。 日本の軍が最も有能だった時代は、恐らく日露戦争の頃であったと思います。この時代は大本営や軍のトップたちは、陸軍士官学校や海軍兵学校を出ていないか、出ていたとしても、ごく初期のころの人たちでした。そして、司令官を支える参謀たちは陸、海軍大学を出ている秀才たちでありました。学歴秀才というのはとかく優等生的、官僚的になりやすいのだと思うのですが、発想に自由さが失われやすいように思えます。その点で、叩き上げの人がその上官でいることで、臨機応変な対応、より自由な発想を生み出しやすかったのではと思っています。叩き上げと、学校秀才がうまく融合する形で、日露戦争の勝利につながっていったように思えます。 その後は、基本的に叩き上げという人たちがいなくなり、皆が士官学校や兵学校を出た学歴エリートたちで占められるようになっていった。これが軍というもののシステムの柔軟性を奪い、硬直化していく。官僚的になり、しばしば党利党略に走り、国家よりも自分たちの組織を優先させてしまった。エリート意識が高じて、下級士官やその下の兵士、国民の命を蔑ろにした。時に、そのエリート意識が自分たちは何をやっても許されるという傲慢さを呼び、それが大本営の命令すら無視し、独断専行で事を起こし、下剋上のような気風を生んでいった。 昭和の軍部といいうものは、机上の空論で、すべて知った気になっているよう単なる学歴エリートというものの危険性を垣間見せられているような気がしてならないのです。 今の日本も、何か似たような雰囲気を感じてしまうのは自分だけでしょうか? 代替となる「人の評価」方法というものがすぐには思つかないのですが、学歴にかわるような人間評価基準というものを新たに構築していくべき時なのではないかと思っています。 |
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2026年6月11日(木) |
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「学歴社会」に思うこと(1) |
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投稿:長野 央希 |
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この数年、友人のお子さんが高校であったり、大学であったりと、受験戦争に突入しているという話を聞くことが増えたため、自分も最近の受験事情がどんなものなのかyou tubeで受験指導、相談系の番組をみたりします。面白いもの、ためになるものもあれば、疑問を感じるものもあります。 気になるのが、学校の勉強ができる、いわゆる高偏差値の生徒に、先生含めた大人が医学部受験を薦めるケースがあることです。 医師という仕事を舐めているのではないだろうかとすら思えてしまうことがあります。確かに学校の勉強ができると、受験戦争に勝って、合格切符を手に入れることはできるかもしれません。その結果、親は鼻が高いと感じられるかもしれないし、学校や塾は合格実績を上げることができるかもしれません。しかし、当の子供本人は、本当に医師に適性があるのかという問題が残ります。臨床医では、患者さんやその家族とのコミュニケーション能力も問われますし、何よりも、医療というものが多大な自己犠牲の精神を求められるべきものであるはずだからです。勉強ができるというだけで、そういった覚悟や適性もないのに医師になっていく人が増えるということは、いかがなものでしょう?臨床医の適正もないまま医師にはなれてしまうのが実情ですが、そういった医師が増えれば増えるほど、医師という物への信頼、ひいては医療という物への信頼が揺らぐことになりかねないのです。 医学部に行けば、そのような覚悟や適性は身につくだろうと考えがちですが、必ずしもそんなことはないのです。学校秀才が医師に向いていると考えるほうが、違和感を感じます。 医師に適性がないにもかかわらず、学校の勉強が出来るというだけで医師になる人が増えることは、人間の医師への不信を助長し、結果的に医療のAIへの置換を促進させるかもしれないし、何より当の本人が不幸な可能性があり得ます。 個人的に、医師という仕事は、自分や家族のプライベートよりも業務を優先させるべき時があると思っています。働き方改革とかいろいろといわれる時代ですが、しばしば医者は自己犠牲を払わねばならない仕事なのだと思っています。それが人の命を扱うということなのです。 私は、学生としても医師としても、決して褒められるような存在ではなかったですし、優秀な実績を何一つ残してきてはいませんので、偉そうなことを言えた立場ではないのですが、それでも10年以上は、自分の心身を削って、仕事してきた自負はあります。父親の死に目にも猫の死に目にもあえませんでした。 医師も軍人も、まったく方向性は違いますが、自己犠牲を払うべき、職務に体を張るべき仕事なのだと思っていますし、これからもそうであるべき業務と思っています。だからこそ、自分はいつまでも医師という仕事を継続できるのか不安はあります。 せめて、奉仕の精神と、時には自分のプライベートは犠牲にする必要があるという覚悟と情熱を持てる人が、医師を志してほしいと思うし、大人たちも、子供一人一人の適正も考えて、進むべき道をアドバイスしてあげてほしいと強く願います。 |
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2026年6月11日(木) |
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佐潟 |
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投稿:長野 央希 |
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最近は佐潟の上潟、下潟をぶらぶら歩くのを楽しみとしております。 佐潟の水面に目をやると、メダカの群れの魚影や薄青紫色に輝く蜻蛉の飛んでいる光景が見られます。 一方ではウグイスやトンビやキジの鳴き声が響き渡り,佐潟の上空にタカやワシが旋回しているのを見かけると、何の獲物を狙っているのだろうかと考えたりしています。 また、沢山の草木が茂っておりますのも面白いです。一ヶ月前にはシナフジが美しく咲いておりましたが、今はもはや散ってしまっております。代わりに群生しているシロツメグサやヒメジョオンが咲き乱れておりました。 こうした様々な野生の動植物を観察していると、飽きることがありません。 同時に何カ所にも渡り「スズメバチ捕獲中」と言う罠のような装置がしかけられているのが目にとまります。クマバチが多数、頭上を飛んでいるなと思っていると、日向の草むらに一匹、かなり巨大なスズメバチを見つけました。幸いに、スズメバチのテリトリーを侵す様なことも無いため、追いかけられることもありませんでした。しかし、中々スリリングではありました。 下潟の法に行くと、ほとんど人とであうことも無いため、野生の昆虫からしたら、のびのび暮らせるのかもしれません。 可能だったら、佐潟の水中に住む微生物を顕微鏡で観察したい者だと思ったりもします。 季節の移ろいを、実感できるという点でも、非常に素晴らしいスポットですので、これからもこの自然を守り続ける重要性を感じます。 |
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2026年6月8日(月) |
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広島東洋カープの伝統 |
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投稿:長野 央希 |
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先週、広島東洋カープの二軍がオイシックストの交流戦で新潟に来ておりましたので、ハードオフエコスタジアムまで観戦に行ってきました。球場に着いたのが19時半くらいで下の絵、既に試合は5回迄進んでおりました。その時点で1対1という、一見すると中々な好ゲームのような展開でしたが、実際のところでは、広島の側で全く点が入る予感がしなかったというのが正直な感想でした。オイシックスの投手陣の好投はありましたが、広島の打力や攻撃面の作戦の問題があるように思われました。少なくとも、オイシックスの方が、エンドランを試みたりと、何らかの策を講じているのが伝わってきましたが、カープでは代走が出ても、全く盗塁する気配すらなかったように、攻撃が無策なのではないかとすら疑いたくなってしまいました。観客席から「走って良いぞ」という応援なのか、文句なのか分からないようなかけ声がかかる有様でしたから、私に限らず、相当数の人がフラストレーションをためていたに違いありません。カー王の二軍は高信二監督なので、カープ伝統の機動力野球をたたき込まれた世代であるはずですが、全く機動力を駆使しないのはどうなのだろうと、怒りすらこみ上げてきている中で、結局オイシックスが追加点を取って、勝利したという結末でした。 二軍というのは基本的に若手のアピールの場であるはずなので、どんどん走ったりと、溌剌としたプレーで存在感を示さねばならないはずなので、ますます、カープの行く末を案じずにはいられません。 確かに、かつてはカープが万年Bクラスの時期がありましたが、少なくとも闘うという姿勢は強く感じることがで来ました。 私が一番好きだったのが1996年の頃のカープです。この年は夏まで首位を独走していた物の、結局巨人に優勝をさらわれた年でした。 あの頃は、捕手 西山、一塁 ロペス、二塁 正田、三塁 江藤、遊撃 野村、左翼 金本、中堅 前田、右翼 緒方と言うそうそうたるメンツで、全員が長打も打てると共に、ロペス以外全員が足を使えた打線で、「赤い恐怖」とか「ビッグレッドマシーン」と言われていたのが大変懐かしく思い出されます。そんなわけで、カープ打線にはいつもわくわくしていたものです。何より、当時の三村監督が好きだったのもあります。 鬼のような練習に裏打ちされた闘う集団でした。正に赤ヘル軍団でした。 『仁義なき戦い』で、小林旭さんの台詞として「広島極道は芋かもしれんが、旅の風下に立ったことは一遍も無いんで。神戸の者言うたら、猫一匹通さんけえ、おどれら、よう覚えとけや」というのがありましたが、小林旭さんの渋い声と相まって、しびれるほどかっこいいと思います。かつてカープにはこの意識があったような気がしてなりません。 今のカープはどうでしょう?チームは家族というのは結構ですが、和気藹々が、馴れ合いのようになってしまっているように思えてなりません。 「広島に乗り込んできたチームは、ただでは済まさない」くらいの姿勢を見せてほしい。 ぬるい試合なんぞ、もううんざりなんじゃ と言うのが本音です。 カープの伝統である、闘う姿勢と機動力を早急に取り戻してほしい。 その為には首脳陣の一新も考えてほしい。 切に願います。 |
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2026年6月1日(月) |
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ライノウイルス |
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投稿:長野 央希 |
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この数週間、当院の発熱外来でPCR検査を行うと、その半数がライノ/エンテロウイルスです。COVID-19やインフルエンザが出ると、現状非常に珍しいなと感じてしまう状況です。その他では、季節性コロナやヒトメタニューモウイルス、RSウイルスが続くという感じです。時々、マイコプラズマが出ますが、百日咳はほぼ最近見かけなくなっております。 院内PCRを始めたのが昨年からのため、これまでは風邪ウイルスがどのような比率で感染していたのか比較は難しいですが、昨年よりはライノウイルスの比率が多いような印象は受けております。 ライノウイルスというのは、ピコルナウイルス科エンテロウイルス属に属するRNAウイルスです。エンテロウイルス属には、他に手足口病やヘルパンギーナ、心筋炎の遠因となることで知られるコクサッキーウイルスなどがあります。(ピコルナウイルス科にはポリオやA型肝炎ウイルスが含まれます。) 一般的には聞きなれないウイルスではありますが、かぜ症候群の大きな一翼を担うウイルスといえます。要は、風邪の代表的ウイルスといってもいいでしょう。教科書的には、潜伏期間は2〜4日、鼻閉、鼻汁、咽頭痛等のいわゆる風邪症状を引き起こしますが、時に喘息の持病があると、喘息の急性増悪につながることになりえます。多くは接触感染もしくは飛沫感染が感染経路となります。 アルコール消毒が効きにくく、石鹸による手洗い、うがい、換気が感染予防として重要です。残念ながら、抗ウイルス薬やワクチンは存在しないため、感染予防を心掛け、感染した場合は対症療法ということにはなります。 実のところ、私も昨年の11月と今年の3月にライノウイルスに感染しております。(3月は季節性コロナ(新型コロナではなく)も同時感染しておりましたが)個人的経験からすると、悪寒がするのに、熱は出ず、鼻汁が多く、咽頭のかさかさとした違和感から咳が誘発され、一度出ると、しばらく咳が止まらないという症状で、何よりもとにかく倦怠感が強く、そのだるさが二週間ほど持続しました。倦怠感に関しては、自分の気合が足りないのではないかと、自分に鞭打って、3kmの散歩を断行してみると、歩いている最中は、若干気分がよくなるのですが、散歩から帰ると、より一層だるくなるということの繰り返しでした。 3月の時は、季節性コロナとの合併ではありましたが、特に症状が大きく変化した感はありませんでした。感染翌週にPCR再検をしてみると、季節性コロナは陰性化しているものの、ライノウイルスは陽性が持続し、その翌週にようやく陰性化しておりました。 今、診療に当たっていると、ライノウイルス感染患者さんの症状は、人によっては、一過性に高熱が出るものの、すぐに熱は下がり、しかし、そこから咽頭痛や咳嗽が悪化したり、やはりとにかく倦怠感が強いという特徴があるように見受けられます。 基本的に春、秋がライノウイルスの流行期といわれております。 例年通りで行けば、6月中下旬頃からCOVID-19の夏の流行が始まるはずではあるので、その段階まで流行が持続するのかどうか、経過を見守る必要があります。 いずれにしろ、これまで通り、感染予防としての手洗い、うがい、人ごみに行く場合のマスク着用が感染予防として重要なのは変わりません。 様々な感染症があふれておりますので、個人個人で感染予防にご留意いただきたいと思います。 |
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2026年5月28日(木) |
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AIは人間の本質を変えることになるのか? |
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投稿:長野 央希 |
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18世紀末に産業革命が起きて以降、その技術革新は目を見張るものがあります。殊に第二次世界大戦以後の、コンピューターの進歩は人々の生活を大きく変えてきております。 今やAIは人間の価値観や人生観すら変えていくのではと思っております。AIがさらに進化すれば(というより近い将来、そうなるだろうと思いますが)多くの人が労働から解放されることになるでしょう。言い方を変えれば、失職する労働者が急増する可能性があるということです。仕事から解放されることを嬉しいと喜ぶか、失職に対する危機感を持つかは個人個人で異なるとは思います。 我々医師も例外ではありません。特に手術などの手技的要素の少ない科の医師はAIにとって代わられることになるでしょう。また、ロボットが更に進歩して、極めて精緻になってくれば、手術を行う科の医師もロボットに職を奪われていくのではと推察します。 看護師や介護士のような職種のほうが、AIにとって代わられるのには時間がかかるのではと思いますが、それでも精巧なロボットが安価でかつ大量生産できるようになれば、早晩ロボットにとってかわられかねないように思われます。 政治家にしても、彼らが国家の利益よりも自分の利潤や党利党略を優先し続ければ、AIが多数決の理論でのより多くの人々の幸福になるであろうと判断し、その政策を冷徹に推し進められる(誰に対しても斟酌する必要のない)社会を国民が望むことになりかねません。その場合、政治家や官僚も不要と判断されるでしょう。 もっとも、政治家や官僚、医師会という巨大な利権集団は、自分たちの身を守るためにも、AIが現体制を覆さないように全力を尽くすでしょうから、すぐに革命的変化が起きるというわけにもいかないでしょうが、AIの進歩は近未来的には社会を根底から覆すようなうねりになりかねないと思っています。 AIやロボットの導入は、初期投資としては相当高額にはなりましょうが、長い目で見ると、長期間支払う人件費よりも安く済むと判断した場合、合理的判断の帰結として、人間よりもAIを労働力として使用する動きは一気に加速していくのではないかと思われます。その時、多くの人間は何も労働的なことをせずとも、生きていける社会が来る可能性があります。 そうなった場合、「何もしない」ことで、人間は様々な能力を退化、退行させることになるのかもしれません。古代ギリシャでは労働は奴隷がする物で、一般市民は労働をしないという社会でした。有閑階級が時間がたっぷりあるために哲学は発展していきましたが、国家としての国力は低下していき、最終的にはマケドニアやローマの支配下に置かれていきました。こういった歴史的事例は、これからのAI社会を考えるうえで参考になるのかも知れません。 また、「労働しない」ことは、もしかすると、他人から必要とされているという安心感を奪うことになるのかもしれません。そうなると、慢性的な抑うつや不全感を抱き続ける状況になるのかもしれません。 AIによって労働から解放された場合に、人間の身体能力や精神性にどのような影響がもたらされるのか、非常に興味があります。 更には、AIが社会の多岐にわたる場で活動するようになれば、学歴なども意味をなさなくなるのかもしれません。今の日本の学歴偏重主義的な社会構造にも大きな変動が起きえます。 AIは静かな革命を起こす起爆剤になるのかもしれません。そして、それは社会構造にとどまらず、人間そのもの、人間の存在意義をすら問うくらいの大きな「革命」に発展するのではないかと戦々恐々としております。 その前に、自分が医師という仕事をAIに奪われる将来が差し迫っているのではという危機感も抱きつつ、自分が今やれる最善を尽くしていくほかはないのだろうという思いで生きています。 |
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2026年5月21日(木) |
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新潟の強み |
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投稿:長野 央希 |
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自分の母校である中学校を訪問致しました。一昨年の北陸地震で、そこも大きな損傷を受けておりましたが、一部校舎の建て替えも成り、新たに立派な駐車場も完成しておりました。駐車場ができた場所というのは、かつては池を有するような中庭のような空間でした。その池の水を汲んできて、たびたびミジンコやアオミドロなどの顕微鏡観察をしたことが懐かしく思い出されます。自分が中学当時のミジンコから何世代を経て、滅亡の憂き目にあったのだろうかなどと、一抹のさみしさを覚えながら、駐車場を眺めていました。思えば、自分の実家の周辺も堀が埋め立てられ、立派な幹線道路ができたり、自分がカエルやザリガニをとっていたような環境がことごとく失われてしまい、今の風景から、故郷に戻ってきたというような実感がわきにくいというのが実感です。 また、最近、平日の昼間に本町に行く用事がありましたが、だいぶ閑散としており、ショックを受けました。幼少の頃の本町というのは、市場街として、相当繁栄していた記憶がありましたので、その差に愕然とさせられました。 時間の経過とともに物理的な面も、人間の心も大きく変化していくのは仕方のないことですし、その変化が良い方向に向かうのであれば、何ら問題はないでしょう。 しかし、昨今の新潟は、人口の流出という問題に直面しております。 自分も、現職という立場がなければ、あまり故郷を感じさせることもない新潟市に戻ることはなかったかもしれませんので、場合によっては流出の一人に数えられていたかもしれません。 農作地がどんどん減り、商業施設や道路などの開発が進んでおり、生活自体は便利になっているのは間違いないでしょう。整備を進めて、都会化することで、果たして新潟に人を呼び込めるのかどうか考えてみました。 頑張って都会化しても、新潟は東京には絶対に勝てません。東京などの首都圏や大阪などの大都市と同じ土俵では、対等に渡り合えないのは当然といえます。 新潟の強みは何か?農業、水産業、牧畜業などの第一次産業に他なりません。 日本一にを争う米どころとして、また海の幸、山の幸にも恵まれ、水にも恵まれているという、この優位性を前面に押し出さないで、どうするのかという話です。 今、米国も国内の政情が不安定になりつつあり、その影響は必ずや世界に波及します。世界情勢が混とんとしてきた場合、昨日の敵は今日の友、逆に昨日の友は今日の敵という目まぐるしい変化をたどる可能性も高まっていくでしょう。そうした場合、食料を輸入にたどっていれば、相手国に常に下手に出る必要もあり、対等な国際関係は築けなくなるでしょう。いかに食料を国内需給で賄えるかが、今後日本が世界で独歩の地位を築けるかの鍵になると思います。 新潟が、その国内最大の食糧庫となり得れば、新潟の発言権は増すでしょう。日本国内における重要度が増せば、自ずと新潟に住みたいと考える人も増えます。 (もちろん、食料を安く買いたたかれないようにするという政治力は不可欠ではありますが。) 今、新潟県内では農業の後継者がいないなどの理由で、農地をつぶして、ほかの施設の建設などに充てる動きが加速しているように見受けられますが、新潟の強みを自ら捨てていると言わざるを得ません。 農業生産者、漁業従事者、畜産業者を手厚く保護する。これは、きれいごとで言っているわけではありません。「隗より始めよ」という中国の故事のように、今いる人たちを厚遇すれば、自然と、有能な人たちが利を求めて、こぞって来県するようになることにもつながるといえます。 官民一丸となって、人材を集め、そして第一次産業に対して科学的研究を進めつつ、商業的に発展させていくことが、将来の新潟の発展に資することは間違いないと思っています。 農地をつぶせば、また農地として利用することは非常に困難になります。今の段階で、農地を確保し、里山を復活させることも視野に入れるべきでしょう。里山の復活は、緩衝地帯として熊や猪が住宅地に下りてくることへの防波堤にもなりえるのではないかと期待するのです。 東京に右に倣って、都会化を進めていくというのは、それこそ地域の特異性を活かすことから、大きく逸脱する所業ではないかと思います。 地方都市には地方都市なりの強みがあり、それを生かす方策を考えることこそ、地方分権の根幹であると確信しております。 |
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2026年5月14日(木) |
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「待つ」ということ |
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投稿:長野 央希 |
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私は基本的には行列のできるような飲食店に並ぶということはしない人間ですが、先日クラシック音楽のイベントでは、チケット購入のために30分強並んできました。期間限定のイベントとなると、流石に並ばざるを得ないという心理状況にはなります。 チケット購入のための行列で、読書しながらひたすら待っていると、母親に連れられた小さい女の子が文句も言わずにその列に並んでいる姿が目に入りましたが、不平も言わずに耐え忍ぶ姿を見て、感心させられました。御両親のしつけのたまものなのかもしれません。 「待つ」ということは、不自由かつ不便さを感じさせられる行為にほかなりません。昨今は、「待つ」ことを含めた不便さを子供に味合わさないようにという親心から、親が肩代わりしているケースというのもしばしばです。 優しい親心という点では理解できますが、もしかすると、その親心が子供の成長を阻んでいる可能性もあるように思えてなりません。 不便さや不自由さに対して耐えることは、忍耐力や胆力を育てることになると同時に、そういった不便さを克服し、より快適さを求めるために創意工夫を繰り返すことは、柔軟な思考力や工夫する力を身に着けさせる契機になるように思われます。 不便さへのスタンスにおいては、日本人は不便さにひたすら耐えることで、世界中でも類稀なる忍耐力をはぐくむ結果となり、一方で、欧州では「人間は神に似せて造られた」という宗教的自負の下で、自然による様々な不自由さを克服するべく、近代科学の目覚ましい進歩や技術革新につねげていく結果となっているように思われます。 不便さへのスタンスやベクトルに差はあるものの、不自由さというものが人類の進歩には大きくつながっていったのではないでしょうか。 徳川家康は「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス」というように、待つべき時はひたすら待つことで、最終的に天下人になりえました。 ただし、「待つ」ことは、待てば必ず良い結果が得られるというわけでもありません。その不条理さも、人間社会の摂理とも言えますので、人生勉強にもなるでしょう。 医師という仕事、取り分けて血液内科という分野においては、治療が長期間にわたることも少なくありません。化学療法などの治療では、すぐに結果が出るものもありますが、結果が出るまでじりじりと待つ必要があるケースのほうが多いです。 待った結果で、患者さんの状況が好転すれば、待った甲斐があったと、患者さんと喜び合える一方で、待っても、良い結果が得られない場合、患者さんのショックは非常に大きいものになりますが、治療する側としても、泣きたくなるほど落ち込んだりもします。 それでも待たねばならないときは耐え忍んで待つ他ないことがあるのです。 「待つ」ことは、時に大変な苦痛を伴います。 ただ、「待つ」ということは恐らく人生の要点を詰め込んだようなものなのだと思えてなりません。 若いころに「待つ、待てる」能力を鍛えることが、人間としての器を大きくもし、人間性を成長もさせることになり、将来必ず役に立つのだと思います。 長い行列に並びながら、そんなことを考えていました。 |
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2026年5月7日(木) |
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業務連絡など |
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投稿:長野 央希 |
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黄金週間(GW)の診療形態 4/27,28 通常診療 4/29 祝日 休診 4/30 通常通り(午前中のみ診療) 5/1 、2通常診療 5/3〜5 休診(5/4急患センター当番) 5/6 午前中 発熱外来のみ 5/7 通常通り(午前中のみ診療) 5/8以降 通常通り となります。 尚、5/6の発熱外来に関しては、職員も少なく通常診療は基本的に行いません。検査会社の関連もあリ、その日は血液検査や点滴も難しい為、御了承ください。 先日、麻疹(はしか)で都内の学校が学年閉鎖になったというような報道がありました。現在新潟県内では流行は認めません。 麻疹は、インフルエンザに比べ、非常に強い感染力を有し、かつインフルエンザのような特効薬もなく、発熱などの有症状時期がインフルエンザに比して、長引きます。 GWで活動や移動が活発化することで、兼愛での流行拡大を警戒する必要があります。 高熱や発疹がででるようであれば、感染の可能性も考慮する必要があります。幼小児や高齢者が感染で、重症化する恐れがあります(高齢の方は、子供の時分に感染している可能性もあり、その場合は十分な免疫がえられている物と思われますが) 基本的に治療は対症療法となります。予防に務めることが最重要で有り、ワクチン接種が予防として大切と言えます。 感染予防のための人混みでのマスク着用や、手洗いの励行を心がけて、良い連休をお過ごしください。 |
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2026年4月26日(日) |
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個と組織 |
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投稿:長野 央希 |
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4月に入り、欧州各国のサッカーリーグの優勝争いや残留争いが佳境に入っております。バイエルンのようにすでに優勝を決めている、あるいはもはや優勝争いは終了しているというリーグも出てきております。一方で、イングランドプレミアリーグではアーセナルとマンチェスターシティ(マンC)との優勝争いが繰り広げられ、この日曜には天王山といえる直接対決があり、マンCが勝利をおさめております。グアルディオラは選手としても監督としても好きなのですが、マンCはそれほど好きでもなく、かといって、アーセナルも好きなわけではない中で、アルテタ監督が良く指揮しており、しばらくタイトルから遠ざかっているアーセナルを若干応援しておりますが、どうなるでしょうか?一方で、マンチェスターユナイテッド(マンU)は監督の紆余曲折を経て、マイケル・キャリックが指揮を執るようになり、強さを取り戻している感があります。久々に3位以内でのフィニッシュができそうなので、かのうなら、来期以降もキャリック監督が続投すればいいのにと期待しています。 一方で、残留争いも激しく、トッテナム(スパーズ)、ウェストハム、ノッティンガム(フォレスト)といった古豪のうち、1チームは降格する可能性が高まっております。スパーズはノースロンドンダービーとして知られるように、アーセナルと長年のライバルでありました。一時は、だいぶアーセナルの後塵を拝している期間が長かったこともありましたが、近年は資金を投じて補強したりと、リーグ上位を維持していたので、今年のこの成績には驚きを禁じえませんでした。自分が、プレミアを見始めたころは、ダヴィド・ジノラが格好良かった記憶がありましたが、中堅に位置するような順位でした。その後は、モドリッチやベイル、ハリー・ケイン、ソン フンミンなどの活躍は記憶に新しいところといえます。ベッカムも子供時代にファンだったということもあり、何とか頑張って残留してほしいところです。 リーガ エスパニョーラではバルセロナが着々と優勝に近づいている状況ですが、レアル マドリーは監督の後退などで迷走を続けている感が否めません。 レアルといえば、かつては銀河系軍団といわれるように、圧倒的な能力を有したスターを集めてきて、相手を圧倒するというチームではあります。今も、エムバペやヴィニシウスJr.、イングランド人ではベリンガムなど錚々たるメンバーをそろえております。 組織だった戦いとか戦術を駆使するといいうよりは、圧倒的な個のパフォーマンスで戦うという面が大きいチームでしたが、近年は戦術の進歩や組織的な戦い方が洗練されたりといったことで、個の力で勝ちきれないという反省のもとに、レバークーゼンンで圧倒的な成績を収めたシャビ・アロンソを監督として招聘しました。当初は、彼の厳格な戦術をチームに浸透させようとして奮闘しておりましたが、元来が個の力で伸び伸びやりたい選手たちが多かったため、選手が監督から離反して、最終的には反乱のような様相を呈し、監督解任という憂き目にあうこととなってしまいました。その後は、アルバロ・アルベロアが暫定監督として引き継いでおりますが、会長やスター選手への遠慮のためか、彼らしい色を出すこともできず、今に至っております。 そもそも、チームとしては、個の力に頼るだけではなく、戦術を磨くことを期待してシャビ・アロンソを呼んできたはずなのに、半年程度で彼を解任したこと自体に大きな問題があると言わざるを得ません。しかも、一部の選手たちの不満を受けて、会長が監督を切るということが、あってはならないこととすら思えます。戦術の浸透には時間がかかることは、予め分かっていたことでしょう。アロンソ監督には、もう少し時間を与える必要がありました。 もともと、レアルが好きではないので、正直なところでは、どうでもいいといえば、どうでもいいのですが、アロンソやアロベロアのようにレアルの栄光を支えてきた主力たちへのひどい仕打ちを見るにつけ、ますます、レアルが好きではなくなってしまいました。 どんなに優れた資質を有している個人も、決してチームという組織よりも大きな存在になってはならないと思います。どんなに優れた個人も一人でプレーして、一人で勝つというわけのものではないのです。個のわがままを許容し、その自我を肥大させ、増長させることは、結果的に組織の弱体化につながるでしょう。 これは、何もスポーツに限った話ではないように思えます。 個人個人は、確かにそれぞれの個性などは尊重されてしかるべきと思いますが、同時に社会という組織の歯車でもあるという自覚を持つ必要があると思います。人間は一人では生きられない。社会を潤滑に動かす歯車としての責務を果たす必要があるように思えます。組織の歯車としての義務を果たすことよりも、個の権利ばかりをを主張し続ければ、最終的に、社会の弱体化や崩壊を招くことになるでしょう。 確固たる自我を持つことは重要ですが、自我が肥大すればするほど、社会との軋轢も増していく。肥大した自我は、その人個人をも傷つける結果になるように思えてなりません。 そもそも、人間自体が、自然の中の一要素にしか過ぎないと気付けば、自ずと、謙虚になれるはずです。 自然よりも人間が強いという幻想は思い上がりにしかすぎません。大自然の中の、多数の人間のうちの一人の人間であると認識することで、自我の肥大化を抑制する必要がある気がしてなりません。 |
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2026年4月23日(木) |