「悟る」ということ |
投稿:長野央希 |
私は仏教徒ではないので、いわゆる悟りというものを真に理解はできないと思われます。一方で剣豪小説や剣豪物の映画などが好きでよく見ておりますが、剣術の達人の無の境地というのは悟りの境地と同じようなものなのではないかと思えてきます。 悟るということは、究極的には自然との同化と結びつくのではないかと、自分なりに解釈しています。自分も含めた人間も自然の一部でしかなく、その現実を受け入れ、自然と一体となれるか、そのためにはどうすべきなのかを考えると、「見ざる、言わざる、聞かざる」の実践となるのではないかと思われてきます。人は、何かを見聞きすれば、色々な知識が集積してきます。そうなると、もっと知りたい、何が欲しいなどの様々な欲望が生まれてくる気がします。何も見なければ、何も聞かなければ、何も知らなければ、自分と他人を比較して、他人を嫉妬したり、ねたんだりすることもなくなります。何かを知ることは煩悩の根源なのではないかとすら思えてきます。 知ることを放棄すれば、争いもなくなるのかもしれませんし、そもそも自然の一部として、その生を全うするのみとなるのでしょう。 これは、しかし、言うことはたやすいかもしれませんが、少なくとも現時点での自分が実践できるような生半可なものではないと言えます。こういったことができるからこそ、悟りを開いた僧侶は尊敬に値するのでしょうし、剣豪は死を超然と受け入れられるのかもしれないななどと考えてしまいます。 また、知りたいという欲求を放棄することは、少なくとも若い時分には、向上心がないことのようにも思えてしまい、人間とはどうあるべきなのか、まるで結論が出ない今日この頃です。 |
2020年12月11日(金) |
違和感 |
投稿:長野央希 |
米国大統領選挙が終わりましたが、トランプ氏が選挙に不正があったと主張しており、裁判を起こそうとしたりと、未だに悶着が続いております。 選挙に不正があったのかどうかは、現在のところ検証しているところでしょうから、その結果を待つ必要はあろうと思います。しかし、これまでの経緯を見ていると、選挙で不正があったという結果であれば、鬼の首を取ったように自分たちの勝利を高らかに謳い上げるのでしょうし、不正がなかったという結果でも、自分たちの敵対勢力によって、真実が捻じ曲げられているという論調で、自分たちの敗北を認めようとはしないような気がしてなりません。トランプ支持者の中には、コロナ問題のみを見ても、あれだけの死者が出ている現実を見ているのか、見ていないのか分かりませんが、「コロナ騒動自体がマスコミの作り上げたフェイクニュース」ととらえている人がいるようです。要は、トランプ氏もその支持者(の一部)も現実云々よりも、自分の信じたいことが真実であるという姿勢のように見受けられます。 この態度から、何となくカルト教団の思想統制に近いような印象を受けてしまいます。カルト教団でしばしばみられるのが、自分たちは正義を貫き、自分たち以外は悪の組織で、正義たる自分たちを迫害するという、二元論的構図に持ち込む姿勢です。敵対勢力による攻撃を喧伝することで、内部の信者に恐怖心と、自分たちが悲劇のヒーローのような自己陶酔感を植え付けて、洗脳しやすくなるのかもしれませんし、結果的に教団の信者の結束を強めているように見えます。彼らには自分たちの信仰が絶対であり、それ以外の現実は受け入れられないものなのでしょう。 かつて、ユリウス・カエサルが言っていたように「人は見たい現実しか見ない」という内容の通り、多くの人は数多ある現実の事象の内で、見たいもののみを取捨選択していると言えますし、そうでないと現実の海でおぼれてしまうのでしょう。ここに、ある種の信仰や信念がからむと、都合の悪い現実は、現実として認識することを拒否してしまうことになるのかもしれません。 かつて存在していた人民寺院という教団は、教祖がパラノイアのような気質であった模様で、最終的には被害妄想的に教団でとして集団自決を図るという結末に至りました。状況は大きく違うとはいえ、何か今のトランプ氏とその一派には類似するような面を感じ、強い違和感を覚えてしまうのです。 |
2020年12月8日(火) |
反グローバル化社会 |
投稿:長野央希 |
アゼルバイジャンとアルメニアの間で、領土問題を発端として戦火を交え、ようやく落ち着きを取り戻しつつありますが、ウクライナ問題と併せて、最近になり、領土的な野心を隠さない国が増えつつある印象を持っております。冷戦中、冷戦後は、宗教的問題やイデオロギーを前面にした戦いが主体でしたが(その背景には領土的な野心があったとは思いますが)、少し、流れが変わってきているのかもしれません。 トランプ大統領が「アメリカファースト」を謳うようになって、世界各国がそれに倣い、自国ファーストの姿勢に変わってきているようにも見えます。 第二次大戦後は、それまでの帝国主義を反省してか、帝国主義を貫くことに疲弊したからなのか、自国の利益を追求し続けるというスタンスが影をひそめるようにはなっていました。ただし、元来が自国の利益を求めるのは当然のことであり、冷戦後の世界は本音と建前の、建前を押し出して本音をより隠すような時代であったのではないかと思います。そして、世界平和を謳い、世界は一つという考えで、グローバル化が進んでいきました。グローバル化によって、過剰な実力主義などの面で、それまで以上に格差が生じ、結果的にそれまでの階級がなし崩し的に消滅し、様々な矛盾が生じ、多くの不満を抱く階層が増えたと言えます。そういった不満を抱く人たちからすれば、グローバル社会ではなく、自国の利益、自国民の利益、従来の階級への返り咲きを求めるようになっていくのでしょう。そんなタイミングで支持を集めたのがトランプ氏であり、英国のEU離脱を強く主張したジョンソン氏であり、あるいはフランスのルペン氏などであったといえるのかもしれません。つまるところ、世界的な規模でグローバルという潮流に疲れたタイミングで、反グローバリズムを推し進める政治指導者が目立つようになってきているといえるように思われます。 この流れは、第二次大戦後の世界的な流れへの反動であり、そう易々とは、止められないのではないかと思われます。恐らく、仮にバイデン次期大統領となっても、基本的には国民感情からして、トランプ時代ほど前面には押し出さないかもしれませんが、「アメリカファースト」のスタンスは大きく変わらないで行く気がしてなりません。つまり、今後自国の利益を優先する姿勢が強まれば、日米安保の履行よりも、米国の都合を優先するわけであり、仮に隣国が日本に攻撃をしかけたとしても、その時の米国の置かれた状況によっては日本を守ることがないという可能性も否定はできない気がします。時代の大きなうねりの中で、自国は自国を守る必要性が高くなっていく時代を迎えている(当たり前なことなのでしょうが)のではないかと思います。日本の平和憲法の素晴らしさは言うまでもないのですが、わが国を害する敵に対して、どう立ち向かうのかという問題を改憲も含めて、しっかり考えないといけない時期に差し掛かっているのではないかと考えます。 |
2020年12月4日(金) |
日本の職人の技 |
投稿:長野央希 |
私が埼玉や魚沼で働いている頃に、しばしば訪れていた財布などの革小物の店が日本橋の人形町にあります。そこは浅草だったかにある工房で日本人の職人が作っている製品を売っているお店で、物の質もい良いのですが、そこのお店の店員さんが、それらの品物のことを「この子たち」と言って、いかにも自分のところの品を慈しんでいる感じにとても好感が持てた記憶が鮮明に残っております。そのそばにあるつづらの工房も伝統の技を生かしたモノづくりをしていて、職人さんの作業を見ているだけでも楽しめます。 その他にも、日本の職人さんが作る色々な物の質の良さから、購入するには間違いがないような安心感があります。例えば、私の使用しているコートは日本人の仕立て屋さんにオーダーして作ったものですが、ほぼ手直しをすることもなく、20年以上着ております。体形さえ維持できれば、もしかすると一生ものと言えるかもしれないと思っています。 若いころは外国製のものに対して、根拠のない憧れがあり、所謂ブランドものがどんなものかと買ってみたこともあります。確かに、布地の色や手触りは素晴らしいと思うものも多々あるのですが、縫製が甘かったりで、少々のことで破れてしまったりということがあり、それ以降はあまり購入しなくなりました。確かに、ブランド物はコンセプトとして流行に応じて製品を作るので、そんなに長持ちする必要はないのかもしれませんが、私としては自分の使用するものは長く使用したいという気持ちが強いので、考え方に相違が生まれるのだとは思います。 タイやイタリアの生地の色はほれぼれするものがありますが、丈夫さの点で不安がぬぐえない面があります。外国製は車や家具などデザインで素晴らしいと思うものが少なくはないですが、物持ちの良さや、頻回なメンテナンスの必要性の点で、やはり私は日本の物を使いたくなります。 日本製のものは、ピンからキリまではありましょうが、やはり安心感が違います。日本の職人技や伝統の技は世界に誇るべきものであり、後世まで伝えていくべき、日本の宝と言えます。 コロナの影響で、現在日本も世界も経済的に大きな痛手を受けています。こんな時だからこそ、日本製品の良さを再確認して、そして日本の素晴らしい技術を守っていく必要があるのだと思います。 |
2020年12月2日(水) |
一億総評論家時代 |
投稿:長野央希 |
私はあまりテレビを見ませんが、テレビをつけると、色々なコメンテーターが様々な持論を展開したりしているのを見かけます。なるほどと思うような内容もあれば、愚にもつかないと思うような内容のものもあり、時にはよくこれでギャラをもらえるもんだと思うような人もいます。 一方で、私はパソコンが苦手なので、ネット情報にも疎いのですが、ネットで、実名・匿名関係なく、多くの人が自説を発信しているのを見かけます。 言論の自由という意味では、多数の人が自己主張できるのは良いことではあろうと思います。ただ、その内容からすると、経験に根差していないような机上の空論の如きものが多いような気がしてなりません。皆が高邁な理想論を発信しているという意味では、国民皆評論家のような時代になっている感があります。 太平洋戦争時と日清・日露戦争時の大きな差は何かを考えると、大きな違いの一つとして、戦争に参加している指揮官や上級士官の「戦」の経験の有無にあるのではないかと思えてしまうのです。日清・日露戦争の時の作戦立案する将校は生身での戦争経験はないか、非常に少なかったかもしれませんが、作戦を認可、指導する指揮官陣は皆、幕末の鳥羽伏見の戦いや会津戦争、西南戦争という戦を経験しています。戦争の規模は小さいとは言えますが、それでも命のやり取りをする、いわば修羅場をかいくぐっているのは間違いないのです。ましてや同じ日本人同士で殺しあうという、拭えないような悲しみを身をもって体験してきたと言えましょう。こういった修羅場をくぐった人は、間違いなく戦場での独特の勘などがはぐくまれるのではないかと思われるのです。日露戦争は薄氷の勝利とは言え、あれだけの国力差の中で最終的に勝てたのは、痛みを伴う経験に根差した作戦指導の賜物であったのかもしれないと思うのです。一方で、太平洋戦争での戦争指導部は、上層部のごく一部のみ日露戦争に参加しているのみで、ほとんど「戦」を経験していません。本当の戦争の怖さと言ったものは戦地に行ってこそ身につくのかもしれません。そして、戦争の怖さや痛みを知るからこそ、どうやったら自軍にとって痛みの少ない作戦指導ができるのかといったことにも思いをはせることが出来るのではないかと思います。そのためには効率性や機械化などの要素も含まれてくるでしょう。太平洋戦争では上層部は多大な痛みを感じず、下級士官以下に多大な犠牲を強いて、最終的には大敗北につながりました。机上の空論で作戦を計画立案し、それを遂行していったことが、敗北に帰結してしまった要因ではないかと思われます。 個人的な話では、私は本当に医療崩壊寸前という地域で勤務した経験があります。一週間で総睡眠時間が10時間程度というような時期があったり、毎日病院から呼び出される、もしくは呼び出されるかもしれないという張り詰めた精神状態で生活をしていたため、このままでは疲労で倒れてしまうだろうという状態でした。勿論、修羅場というにはおこがましいとは言えますが、それでも身を削るような日々を送った経験があるため、そういった苦労もせずに、知識だけは豊富なくせに、あまり現実に根差していないような意見を述べてくるような同業者を見ると、時に怒りを感じてしまうのです。 皆が自分の意見を主張することは良いことですが、実行不能なようなことばかりをいうだけ言って、実際に行動しないのは無責任のそしりを免れないのではないでしょうか? これからの時代は、様々な面でますます大きな変化が起きていくことが想定されます。そのために、意見を述べるだけではなく、実行力が求められていく時代になっていくのだと思います。 |
2020年11月27日(金) |
インフルエンザ回想 |
投稿:長野央希 |
私は、これまで二回インフルエンザになっております。最初は小学生の頃だったかと思いますが、とにかく学校の教室で歩いていても、まるでふわふわしていて、歩いているのに、スキップしているような感覚だったことが思い出されます。二回目は受験生の頃で、センター試験終了直後に罹患しました。恐ろしい寒気が襲ってきて、そうこうしているうちに39℃の高熱が出て、検査の結果インフルエンザ陽性と判明しました。タミフル内服をしましたが、内服開始後2日ばかりは、とにかくだるくて、受験勉強しないといけないのにと思いつつも、床に臥せっておりました。食欲もなく、三食ともガリガリ君を食べて過ごしていたことが強く記憶に残っています。その頃、家では猫を飼っておりました。基本的に家の中では一番年少の私に対しては、猫はなめてかかっているため、遊びたく成れば、私にちょっかいを出してくるのですが、インフルエンザで具合が悪い時には、猫も遠慮してくれていました。更に、私は寝相が悪いため、猫は基本的に寝ている自分には近づかないのを原則としておりましたが、その時は、まるで私を気遣うように自分の足のところで一緒に寝てくれていました。猫は何か不思議な感覚を持っているのだと思いますが、弱り目な時に、そばにいてもらえることがどれだけ嬉しいか実感した出来事でもあります。 インフルエンザの診療で、最も印象深い症例は、埼玉で働いている時のものでした。ゴールデンウィーク明けくらいの、土曜の11時頃に発熱と頭痛で救急外来を受診された50代の女性がおられました。救急当番であったため、私が診察にあたり、インフルエンザ抗原検査をしたところ、B型インフルエンザの結果でした。通常であれば、タミフルなどの抗ウイルス薬を処方して御帰宅いただくのが常ではありますが、頭痛が強いため、頭部CTを撮ったりなどの諸検査をし、あまり大きな異常は確認できないものの、ひとまず入院をしていただきました。土曜ですので、病院としても午前で基本的な業務は終了となり、人手は減ります。ですので、午後に色々な検査は困難になるのですが、流石に、今回は頭痛も強いので、髄液検査は不可欠であろうと考え、御家族をお呼びして検査の説明をしようと待っている間に、みるみる内に患者さんの意識状態が悪化していってしまったので、家族の来院を待たずに、髄液検査を行いました。その結果、細菌性髄膜炎(その後の培養結果で肺炎球菌性髄膜炎と判明)の合併を認めたため、経鼻胃管から抗インフルエンザ薬の注入(当時はまだ、点滴の抗インフルエンザ薬はなかった)を行いつつ、抗生剤の点滴治療を開始しました。幸いにも同日の夜には意識は戻り、その後軽度の聴覚過敏が後遺症として残る以外は、重篤な後遺症が残りませんでした。 インフルエンザで頭痛が生じるのは当然ながら、細菌性髄膜炎などの別の病態も合併している可能性を常に念頭に入れる必要があることを改めて思い知らされた出来事でした。 今年は新型コロナの兼ね合いで、多くの人が感染予防のために手洗いやマスク着用を心がけておりますので、例年よりはインフルエンザの患者さんが減るのではないかという推測もありますが、どうなるかは分かりません。 いずれにしろ、インフルエンザであろうが、新型コロナであろうが、しっかりした手洗いを行い、外出時のマスク着用を心がけるなどの日常の注意を怠らないようにして、感染予防に努めていくようにお願いします。 |
2020年11月21日(土) |
今できること |
投稿:長野央希 |
私の医院の近くにある高齢者介護施設で、30人という規模のクラスターが発生しております。新潟県内では最大、全国的に見ても、大規模な部類に入るであろうと思われます。 30人の感染者の方々が、重症化していかないことを切に願っております。 同時に、心配なのが、この施設や施設職員、入所者への差別や風評被害です。今後、「誰がウイルスを持ち込んだのか」といったような『戦犯』探しのような動きをしたりする人が出てくる懸念があります。陽性者の追跡調査をするのは、保健所の役割であり、我々一般市民がやるべきことではありません。ましてや、それをもとにネットに書き込んだり、非難・冒涜するような行為は厳に慎まなければならないと思います。 そもそも、そういったことに労力を費やすことは時間の無駄であり、誰にとっても何ら利益をもたらしません。 人を敵視したりすることで、感染はいっそう蔓延してしまうのではないかと恐れます。 今できることは何かをよく考えてください。恐怖や不安で、人間不信に陥り、人を陥れるようなことをするべきではないのです。 まず、わが身を守ること、そして、他人を守ることを考えてください。そうすれば、自ずとやるべきことが見えてきます。 自分を守るには、感染予防の基本中の基本である手洗いに尽きます。それも、おざなりなものではなく、しっかりとした手洗いです。そして、室内の換気をこまめに行い、乾燥予防のための加湿に配慮することです。 そして、相手を守ることは、マスクを着用することと言えます。 もはや、無症候性や軽症の陽性者が多いことを考えると、常に自分自身も新型コロナの保菌者である可能性を考えてふるまう必要があります。自分が無自覚に周囲に感染を広めてしまっているかもしれないと考えることが重要です。その結果、どうしたら、自分が相手を守れるかを考え、自分の唾液などで他人を汚染させないためにマスクを着用しようと行動することです。 米国では、政治信念の表明のような形で、マスクを拒むといった愚行が繰り返されました。結果、感染は収拾がつかず、28万人を超える死者を出しているような惨状となっています。マスクは自分を守るというよりは、相手を守るというエチケットの一環なのです。 相手を非難している時間があれば、相手を守り、結果的に自分も守るということに時間を費やしてください。それが、感染の蔓延を少しでも予防することにつながっていきます。 綺麗ごとではなく、人とうまく共存しようとする気持ちが、いま最も必要なことなのだと思います。 そして、冷静に事実を見極め、過度に恐怖を感じるのではなく、恐れるべきことを適切に恐れ、極力通常の生活を維持することが重要と考えます。 どうか、冷静に!! |
2020年11月18日(水) |
大相撲11月場所 |
投稿:長野央希 |
大相撲の11月場所が始まっております。例年であれば、福岡開催のところが、コロナの影響もあり、両国で開催されております。 私は祖父母の影響もあり、幼少の頃から相撲が好きでした。子供の頃に好きだったのが、千代の富士と寺尾でした。千代の富士に関しては、八百長だのなんだのとの批判をしばしば耳にしますが、大柄でない中で戦う姿は今見ても格好いいと感じてしまいます。また、寺尾も、小兵であるのに、常に闘う姿勢を示し、私個人も体が小さいということもあって、何だか感情移入できたのかもしれません。 その後は、今となっては色々と批判にさらされがちな貴乃花ですが、当時の孤高の人というようなスタイルに惹かれたものです。 また、モンゴル人横綱も、様々な評価を受けておりますが、彼らは彼らなりに頑張っている姿は評価しなくてはならないと思います。殊に全盛期の白鵬のスピードは大したものだと思います。年齢的にスピードの衰えは隠せず、結果的にかち上げなどの美しくない取り組みが増えてきてしまっているのかもしれませんが。個人的には関脇くらいの頃の白鵬が一番取り組みが面白かったような気がしています。 今場所は、最初から両横綱の休場が決まっておりましたが、早々に大関の朝乃山と正代がケガによって休場してしまいました。最近は、あまりにも横綱や大関をはじめとした幕内上位の力士の欠場が多いような気がしてなりません。以前、整形外科の先生がおっしゃっていたのが、力士がより重量化したために下半身への負担が増大して、けがが増えているのだろうとのことでした。加えて、昔ほどしこを踏まなくなったとか、けいこ量が減っているといったことも原因にはなるのでしょう。ただ、昔よりは明らかに科学的なトレーニングを取り入れているのでしょうから、けがが減ってしかるべきと思うのですが、どうなのでしょうか?いずれにしろ、相撲ファンとしては、横綱や大関たちが必死に賜杯を求めて戦う姿を見たいのにもかかわらず、頻回に休場してしまうのでは、ファンを裏切ってしまっているとも言えます。けがをしてしまうのはやむを得ないでしょうが、ファンあっての大相撲であることも忘れないでいただきたいと思います。 個人的には、新潟出身の豊山にもっと頑張ってもらいたいと願っております。素材は申し分ないのでしょうし、同世代の隣県の富山出身の朝乃山に差をつけられてしまっておりますので、ここで奮起して、三役に定着できるようになってほしいと思います。 また、昔から、勝ったり負けたりとあまり成績が安定しない力士ではありますが、佐田の海が好きなので、何とか頑張ってほしいと思っています。 尚、琴奨菊が引退するとのこと。長い間、お疲れ様でした。寂しくなります。 |
2020年11月14日(土) |
コロナ第三波 |
投稿:長野央希 |
都内ではコロナ第三波との報道がありました。私の先輩で札幌で働いているかつての同僚の話では、道内だと第四波が到来しているという判断だそうです。そのような中、これまで魚沼地域では、陽性者が0であった状況から、一転して南魚沼警察署で新潟県内ではこれまでで最大のクラスターを認め、17人(11/12時点)の陽性者が出ました。魚沼市でも一人陽性者がでたとのことです。この度のケースでは若い方が主体ということで、症状としては軽微で済む可能性が高いであろうと予想されますが、より心配なのが、風評被害や差別の問題であろうと思います。 魚沼地域ではとにかく「感染者第一号にはなりたくない」という意識が高いため、魚沼初の陽性者に対して、心無い対応をくれぐれも取らないでほしいと願うばかりです。 そもそも、これまで新幹線が止まる湯沢地域や浦佐界隈で陽性者が0であったこと自体が不思議なくらいであり、検査を行おうとするハードルが高かったことも要因であろうと思われます。 今回、陽性者が出たことで、接触者に対する検査も行われるでしょうし、地域の住民感情として、自分も新型コロナが心配だから検査してほしいという人が増えてくることも予想されますので、一気に検査件数が増加し、結果的に急に陽性者が増加するという可能性も否定できないでしょう。新型コロナでは無症候性の隠れ陽性者が多いのも特徴の一つではありますので、ふたを開けたら・・ということも考えられます。 しかも、GoToによって都心部などからの行き来も活発化したことで、更に陽性者数が増えてくることも想定しておく必要があります。 ここで問題になるのが、陽性者数が増加することより、その中で重症化している割合がどうなのかを見極める必要があるということです。 東京大学から、現在欧州で流行しているウイルスは変異の結果、感染力が高いものになっているという報告がありました。 基本的には、コロナウイルスは風邪を引き起こす代表的なウイルスであり、必ず、定期的にコロナの流行はあるはずなのです。 従って、現在流行している、あるいは流行の兆しがあるウイルスは感染力が強まっている一方で、どのような毒性で、結果的に重症化率がどうなのか、致死率がどうなのかという点を注視しなければならないと言えます。 風邪程度の症状で、それほど重症化しないのであれば、全くパニックになる必要がないということになります。(どんな状況でもパニックにはならない方が良いのですが) いずれにしろ、いたずらに不安や恐怖をあおったり、差別的な行動をとることは厳に控えなければなりません。科学的な目で見て、冷静に事実を事実としてとらえ、淡々と日々の生活を送ることが大切です。そして、新型コロナ然り、インフルエンザ然り、ノロウイルス然りで、感染の予防におけるもっとも重要なことがしっかりとした手洗いです。手洗い、定期的な換気、室内などの乾燥予防に配慮していただきたいと思います。また、マスク着用は自分の身を守るというよりは、自分が陽性者の場合に、周囲に感染を拡大させないための配慮、エチケットとして重要である認識を共有していただきたいと思います。 |
2020年11月13日(金) |
児童虐待の問題 |
投稿:長野央希 |
『虐待死』(川崎二三彦著 岩波新書)を読みました。 私は子供がおりませんので、子育ての苦労を知らないという意味で、虐待をする親を非難できる立場にはないかもしれません。 しかし、医療者としても、一人の人間としても虐待という問題に関心を持つ必要があると思いますし、国民一人一人が虐待を問題意識をもってとらえることが非常に重要なのだと思いました。 個々のケースレポートを読むと、正直なところ反吐が出そうなほどの嫌悪感や不快感を覚えてしまうような事例が多々ある中で、児童相談所の職員の方々のたゆまぬご苦労には頭が下がる思いです。 この本を読んで、虐待には、トイレで子供を産み落として、死亡させてしまったり、生まれたばかりの子供をロッカーに入れて死なせるといったような嬰児殺しや、親子心中も虐待の一部であるということを学びました。恥ずかしながら自分は不勉強で、虐待と言えば、いわゆる身体的な暴力やネグレクトと言ったもののみを想定しておりました。しかし、言われてみれば、心中なども子供の意思に反して殺害するという意味で、立派な虐待なのだと納得しました。 虐待と言っても、実はそのケースケースで、様々な事情があり、対応も千差万別なのだということも学びました。例えば、再婚親、ステップファミリーのケースや、親が精神疾患を有しているケースも少なからず存在しているとのことで、虐待を糾弾するというよりは両親や一家のサポート体制を整えることが虐待防止につながる場合も多々あるのです。 また、日本的な側面もあるかもしれませんが、体罰を容認する文化を見直す必要があろうかと思います。しばしば、元巨人の桑田真澄さんが体罰が必要ない旨をおっしゃっておられますが、その通りで、しつけには体罰は必要ないことを一人一人が認識する必要があるのだと思います。愛の鞭が美徳とされる風習は是正しなければ、虐待はなくならないと言えます。また、子供は親の所有物であるかのような錯覚を抱いている人が存在しており、まずは子供は自分の意思を有する別人格であることを理解する必要もあると思います。そもそも、子供が親の意見に従い続ければ、結果的に自分でものを考え、判断して行動するというスキルがまるで育たないことにもつながりかねないのではないかと思います。子供の意思をある程度は尊重し、軌道修正が必要な場合は修正してあげなくてはならないのだろうと思います。 加えて、著書内で、虐待する家族内にはDV問題をはらんでいる可能性も指摘されておられました。DVには暴力や暴言がなくても、「支配ー被支配」の関係が成立していれば、十分DV関係に成り立ちえるという点も、なるほどと思いながら読んでいました。支配される側の心理状態を考えると、精神的な恐怖や苦痛はいかばかりのものか、想像を超えてくるような気がします。こういった点をどう向き合うのか等問題は山積していると言えます。 更に、日々労苦をいとわず、ときに注視すること自体が苦痛であるような虐待の現場を目のあたりにしている児童相談所の職員の方々に対して、しばしばマスコミやSNSで正論を振りかざしたような批判がなされ、そういった社会的な逆風で、退職していくような職員の方もおられるため、職員が定着しなかったり、人員が常に不足気味であったりして、結果的に更に児童相談所の職員一人の仕事量が増大し、疲弊していくという悪循環に陥っている現場の話もありました。医療現場もそうですが、常に自分は安全なところにいて、正論をもって批判してくる人の意見に、どこまでの説得力があると言えましょうか?システムを改善させるために正論や理想論を語ることは時に必要ですが、現実を見て、すぐに実行できないような理想論などは机上の空論でしかないと思います。そして、その机上の空論でもって踊らされ、疲弊していく現場を考えると、その理想論が社会のマイナスにつながっているかもしれないことを理解する必要もあるのだと強く思います。 虐待に対する法律やシステム作りは、まだまだ始まって日が浅いと言えます。日々虐待で苦しむ子供たちが絶えない現実を考えると、一刻も早く虐待を撲滅させたい気持ちはわかりますが、早急に事を進めて頓挫するよりは、ゆっくりでも確実な進歩の方が、長い目で見ると重要なのではないかとも思います。これまで、虐待で命を落としてきた多くの命を無駄にしないためにも、社会全体が一丸となって、この問題に取り組むことが必要だと痛感しました。 |
2020年11月9日(月) |