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 東日本大震災(8)
投稿:長野央希
二回にわたり、救護班に参加できたことは、今でも自分にとって貴重な経験でした。私は、他に誇るべきものは何一つないと言っても過言ではありませんが、この時に救護班に参加できたことは私の唯一の誇りです。
ここで、その時の経験を踏まえて、自分の考えや思いを書いておきたいと思います。
(1)当時の私の上司の一人は、震災の時に「自分は痔だからウォッシュレットのないところにはいけないな」と笑いながら話していましたが、平時では十分笑い話にはなります。やはり関東の人からすれば、他人事のような面があるのだと痛感しました。しかし、日本は災害大国ともいえるほど、どの地域も何らかの天災による被害を受けかねないことを肝に銘ずる必要があります。いつ何時、自分が災害の当事者になるかもしれないという思いを持つべきと思います。
(2)災害の種類によって、その被害内容は大きく変わることを理解しなければなりません。阪神大震災の時は地面の陥没、家屋の倒壊や火災により、被害が拡大しましたが、東日本大震災では津波による水害が主たるものでした。前者では整形外科的な外傷が多かったはずですが、後者では、そこまで重症の外傷は多くはなく、むしろ持病の増悪や溺水や海水の誤嚥による誤嚥性肺炎などへの対応が重要であったと思われます。
従って、災害の種類に応じた、救護班の医療準備も少しづつかえていく必要があろうと思われます。
(3)災害の予防策を講じて、それに応じた前準備をしっかりしておくことが重要であることを再認識しました。
石巻日赤では、大地震が来ることを想定して、対策を練っていた模様です。もし、それがなければ、恐らく震災直後の医療体制は崩壊していただろうと思われます。それでも、対策を講じた、想定以上の水害であったことも事実でしょう。
まず、対策を講じる場合に、自分のいる地域が水辺なのか、山間なのか、住宅が密集している地域なのか等で、起きうる被害を想定する必要があります。更に、想定する場合は、最悪の事態を考える必要があるのだと思います。昔から、日本人は最悪の事態を考えて対策を練ろうとすることの下手な民族ではありますので、自分たちの国民性も考えていく必要があると思います。
(4)避難所では、たいていの場合上下水道とも機能が麻痺している場合が多く、その環境は感染症の温床になりやすいということを認識しておく必要があります。3月の時点では、万が一避難所でインフルエンザが出れば、一気に蔓延してしまうという懸念がありました。一方で、5月の時点では、大分日中の気温が高くなっていましたから、食中毒など腸炎を起こしやすくなるのではないかという不安がありました。もし、現段階で、何か天災があれば、新型コロナの対策をどうするかという問題を考える必要があります。
(5)避難所での生活は非常にストレスフルな環境です。ほぼプライバシーもない状態です。震災直後は連帯感のような感情があって、支えあえていたものが、時間の経過とともに、共同体内での不協和音も出てきてしまいかねません。また、震災で負ったトラウマなども尋常なものではないと言えます。そういった意味でも、心のケアは極めて重要であると言えます。
(6)デマや風評被害への注意う。災害などの社会的混乱が生じるような状況下では、その被害に対する怒りのはけ口として、スケープゴートにされるような人たちが出てきます。また、完全に不確かな情報でも、まことしやかに情報が共有され、デマが真実のような様相を呈してしまう場面もあります。昨今ではSNSなどでデマであろうと各種の情報が拡散されてしまいやすい時代でもあり、混乱した状況下でも、いかに冷静に情報を取捨選択する重要性を認識する必要があります。

「天災は忘れたころにやってくる」という寺田寅彦の格言があります。
東北の震災以降も、千葉や九州など各地で様々な天災被害に見舞われました。平時にこそ、こういった不幸な教訓を再度考えるべきなのだと思います。


2021年3月13日(土)

 東日本大震災(7)
投稿:長野央希
釜石に行った際は医療的な救護と同時に、復興支援として、地元の経済的な支援も一つの目的となっておりました。
ですから、5月の救護班は海からほど近いところにあるホテルを宿舎としていました。料理もおいしく、大浴場もあって、とても快適に過ごさせていただきました。そのほかにも、経済的な支援という形で、釜石の土産物屋や地域物産展のような市場で買い物が奨励されましたし、昼食は地元の飲食店を利用してきました。おいしい海産物が非常に印象に残っております。
また、時間的な余裕があるときには、日赤として借りているレンタカーを使用しても良いことになっていましたので、研修医を連れて、釜石市街地を回ってみることにしました。3月の段階とは異なり、他の日赤病院の救護班とも親しくなったりしましたから、そういった人も市街地をめぐりたいと希望してきたため、一緒に市街を回ってきました。私は非常に運転が好きなので、知らない場所をドライブするのがとても楽しみなのですが、この時はとてもそういう気分にはなれませんでした。
海のそばでしたから、当然海の香りが強いのですが、併せて何か生臭い匂いや、ところどころによっては腐敗臭のような匂いが漂っていました。市街地と思われる地区は、廃墟やがれきの山となっており、震災前の状態がまるでうかがい知れないような光景でした。そして、それぞれの廃屋には赤丸や緑丸がかかれており、どうも御遺体が発見されているか否かを示していたという話を聞きました。家の外装は完全に破壊されているのに、内部の机が残っていたりというところもあり、車を降りてみると、机にひっかかるような形でランドセルがおいてあるのを見つけ、そのランドセルから教科書らしいものが見えたりしていましたので、つい最近まで普通の生活の場だったことを改めて認識させられました。
釜石市街には新日鉄の工場にかかる陸橋がありましたが、そこには津波で流されて、陸橋に衝突して乗り上げた状態の船が未だに残されていましたし、海沿いの堤防では、巨大なタンカーが堤防に乗り上げて、動きの取れなくなっているような状況も見られました。
雨が降ると、依然として冠水するようで、一部の道路は雨の後は完全に浸水していたりしました。巨大な鉄橋が柱の根元のあたりで、完全に折れて倒れているような光景も見てきました。周りのすべては流されつつも、神社の鳥居のみ残っているという場所も見てきました。
震災から二か月。好転している面もある一方で、復興への険しい道のりは果てしなく長く続いていくというような暗澹たる思いを抱いた三日間でした。

2021年3月13日(土)

 東日本大震災(6)
投稿:長野央希
私は、2011年5月末に再度日赤救護班として、岩手県の釜石に行きました。
この時期には、新幹線含めた鉄道の運航が再開しているところも増えてきておりましたので、電車で埼玉から釜石に行ってきました。宮沢賢治ゆかりの土地ということもあり、駅には銀河鉄道にちなんだようなモニュメントなどがありました。釜石につくと、駅構内は一部工事中であったと記憶しておりますが、通常業務が遂行されておりました。
そこから日赤の救護班が集合しているプレハブのようなところに行き、業務連絡や任務の確認を行いました。流石に、3月の時点と比べると、大分切迫している感じは無くなっていました。二日間にわたりいくつかの避難所を回診するという任務を与えられました。市街地からそばの避難所は小学校の体育館を利用していたりしており、一方で、山間の避難所では、公民館や神社の社殿が避難スペースになっているところもありました。
震災後2か月経過しておりましたので、地域の基幹となるような病院は業務を再開しているところが増えておりました。そのため、3月のような混乱したような診療風景はほとんどなくなっておりました。基本的には避難所で風邪を引いた患者さんの診察などが主体でしたし、より重要であったことは心のケアであったと言えます。日赤としては心のケア班を派遣しておりましたから、救護班とともに心のケア班が同時に働いておりました。
ちなみに、2回目の救護班の際には、自分についている研修医にもついてきてもらいました。災害救護というものを経験するということは、医師としても非常に重要な経験であろうと考えられましたので、研修担当の責任者である副院長にお願いしていました。彼は、避難所で、色々な人の話に耳を傾けてくれましたし、ハチ刺されなどの患者さんの処置も手伝ってくれて、大いに助かりました。
また、釜石の医師会の方などとの打ち合わせのために公民館に行く機会がありました。この打ち合わせ自体は業務連絡程度で、すぐに終了しましたが、むしろ、その公民館のエントランスホールで、まだ消息の分からない被災者の方々の人探しの張り紙が多数あり、とてもやりきれない思いがしました。とりわけ、二歳の子供を探しているという張り紙には、涙が出そうになりました。2歳の子供が二か月以上も親なしで生存している可能性は極めて低い状況で、その子供もかわいそうに思うとともに、その親の心情たるや、計り知れない苦悩に満ちた日々を送っていることが想像され、言葉に出来ないような虚無感を感じました。
実際に、その母親と思われる方を避難所で診察しました。症状は不眠でした。基本的には多少の不眠で安易に睡眠薬を処方することは望ましくないのですが、このようなケースでは少しでも不安や焦燥を抑えてあげられるような薬剤が必要であろうと判断し、抗不安薬を処方しました。

2021年3月13日(土)

 東日本大震災(5)
投稿:長野央希
石巻を去り、埼玉へ向けて帰路につきました。東北道を上っていく中で、白河インターであったか、どこか失念しましたが、食堂が営業している数少ないサービスエリアでラーメンを食べました。そのサービスエリアで、病院から、「雨にあたらないように」「車の外に出る際は、首にもタオルを巻いたりして、極力肌を露出しないように」という指示がありました。その時点では、我々はなぜこんな支持を受けるのか理解できませんでしたし、病院に帰院したら、すぐに着替えて、シャワーを浴び、極力人と接触しないように帰宅するようにというような指示まで出ていました。
私は、この災害救護に行く際には、遺書まで書いていました。再度、同じ規模の地震や津波が起きれば、自分も生きて帰れないだろうと本気で考えていました。今から考えると、馬鹿馬鹿しいほどの悲壮感を感じていたのですが、この時は大まじめで、親しい人にも、出発前にお礼の御挨拶のメールを送っていたものでした。実際には、この任務で死んでもかまわないくらいの気持ちでいただけに、救護から帰って、まるで汚いものでも扱うような病院の指示に、とても腹が立ったことが思い出されます。
現場では、福島の原発で事故が起きたことはほとんどわかっていませんでしたから、振り返ると、この時の病院の指示が放射能被害にあわないようにという意味での指示であったことが理解できますが、この段階では、訳も分からず、とにかく不快な思いをしていました。
車の外に極力出ないように言われたため、その後はサービスエリアでの休憩もなく、まっすぐに帰院しました。
埼玉に戻って、その日に自分の車のガソリンを入れに行くと、軒並みガソリンスタンドは大行列が出来ているか、もう本日分のガソリンがないということで営業終了しているような有様でした。幸いに花園インターそばに穴場のようなガソリンスタンドがあり、そこでガソリンを入れることが出来ましたが、その後は給油するガソリンの量も制限されるようになり、加えて、スーパーやコンビニで置いてあるパンなども売り切れるような状況が増えていきました。埼玉というさして被害の爪痕のないような地域ですら、このような物資の欠乏する状況にいたっていたことからも、震災の影響の大きさが窺い知れます。

2021年3月12日(金)

 東日本大震災(4)
投稿:長野央希
3/15に起床すると、昨日同様、視聴覚室での朝のミーティングが行われます。業務連絡の中で、再び医師同士が、やり場のない怒りをぶつけあうようなシーンも見られましたが、こういう極限状態では、時に思いをぶつけあう方が、ストレスをためすぎないためにもいいのかもしれません。誰も経験したことのない極限状態で、最善の方針を打ち出すことは困難で、試行錯誤の中から、よりよい方策を見つけ出すという状況でしたから、震災発生から1週間はみんな手探りで、最良の方法を見つけ出そうとしていたといえるかもしれません。
その日は、病院の玄関前で、トリアージを行う任務を受けました。患者さんの状態を見て、重症度を判断し、重症度に応じて色分けし、それに対応する治療スペースに誘導するという役目です。
大概の方は、歩いて病院を受診されましたから、そういった方々は基本的にはトリアージの緑(軽症)となります。
そんな中で、津波で身動きが取れず、自宅にこもらざるを得なかった高齢女性が救急搬送されてきたケースもありました。足が不自由で、家から出られなくなっていたのですが、幸いに大きな問題はなさそうでしたので、ひとまず黄色のブースに行っていただきました。
最も、印象に残っているのが、3/11に被災してから、丸太のような木に乗って5日間海を漂流していた老人が、自衛隊のヘリコプターで救出され、そのまま石巻日赤に搬送されてきたケースです。自力歩行もままならず、隊員に両わきを抱えられ、何とか病院玄関においでになりました。全身ヘドロのようなものがこびりつき、海特有の匂いが強烈に印象に残っています。3月の海上ということで、非常に寒い中、よく生存できたと思えるほどの状態でした。低体温もあり、トリアージ赤のブースにお連れしました。海水を飲んでいたりということもあって、肺炎が合併していく可能性が高いことが予想されました。
その他では、玄関前で、亡くなったと思われていた石巻日赤の看護師が、無事であることを伝えに来院する場面もあり、また患者さん同士で、無事に再会できたことで、泣きながら抱き合っているような光景も目にしました。
中には、その日が抗がん剤の点滴の日で来院した方や、内視鏡検査の予定なので来院したという方もおられましたが、当然のごとく、この混乱状態で、予定治療や予定検査は出来ません。これを受けて、抗がん剤治療をされている方は、自分のがんが悪化していってしまうのではという恐怖を吐露されていました。確かに、未曽有の被災を被った地域で、安定して抗がん剤が供給されるようになるまで、あるいは病院として日常診療に戻るまでにどれほどの期間を要するのか、全く未知数であるため、上記のような不安を抱く人も少なくなかったと思われます。

この日は、気温も低く、30分程度でも屋外で働いていると、寒さが堪えるような気候でした。このような中で、生き延びた多くの被災者の方々に、敬意を表さずにはいられません。
昼過ぎまで、トリアージの仕事をしてから、夕方前に石巻を去り、埼玉への帰路につきました。その当時働いていた日赤で、私たちは第二班でしたが、既に第三班が被災地に向かっており、そういった兼ね合いで、任務終了となりました。


2021年3月12日(金)

 東日本大震災(3)
投稿:長野央希
巡回している避難所には、何人か妊婦さんもおられました。一人は、「おなかのはり」を強く自覚しておりました、幸い、私の医療班では看護師の一人が助産師であり、その方と相談し、切迫流産の危険もあると判断されましたので、巡回地から石巻日赤の本部に戻った際に、この妊婦さんの件を相談し、救急車を用意して、福島の病院に入院させてもらうことが出来ました。
あのような不幸な出来事の直後に生を授かるということは、とても感慨深いもので、何とか無事に生まれて、そして力強く成長してほしいと願わずにはいられませんでした。
その他、避難所では、診療の他に、避難している人たちの話をよく聞くのも一つの仕事でした。最も、印象に残っているのは、中年から初老にさしかかった男性の話です。その方は、津波の中奥さんとともに逃げていたそうですが、途中で大きな波にのまれ、目の前で奥さんが流されてしまったということでした。ここでは記載を控えるほど、目を覆いたくなるような光景であったということを涙ながらに話しておられました。目の前で肉親や愛する人が津波にのまれるのを目のあたりにしつつ、全く何もしてあげられないという無力感にうちのめされるという信じがたい事故に見舞われた辛さというものは想像を絶するとしか言いようがありません。こういった被災者の方々が、少しでも思いを口に出すことで、苦悩を和らげてあげることも救護の役目なのだと強く思いました。
その日は、石巻日赤からの要請で、埼玉から血液透析の回路の備品や蒸留水と、その他、不足しがちなおむつを持参し、病院にお渡しする仕事もありました。確か地下に薬局や備品庫があった印象があるのですが、そこで各備品をお渡ししました。この際に地下の広間のようなスペースが目に付きましたが、この広間では、シートにくるまれた御遺体が多数安置されていました。当時8年近く医者として働いてきましたから、望まなくても人の死と少なからず関わってきましたが、これほどの光景は後にも先にも目のあたりにすることはありませんでした。
被災者の方々や、石巻日赤の職員の方々に比べれば、自分等の疲労は、取るに足りないものであるとは思われますが、それでも、巡回から17時過ぎに戻ると、とても疲れていました。食事もままならないであろうと覚悟しておりましたが、幸いに避難所では炊き出しのおにぎりや桜餅を御馳走になりましたし、夜は病院内で、備蓄しているカップラーメンと干し芋をいただくことが出来ました。この時、カレー味のカップヌードルを食べましたが、寒いところから戻っているところでの、温かいカップヌードルというだけで十分心が満たされましたし、麺は完全に伸びていましたが、恐らく自分の人生で一番おいしいカップラーメンでありました。涙が出てきました。私の苦労など取るに足りないとはいえ、これが命の味なのかもしれないと思いました。
その日は、ミーティングを行った視聴覚室の部屋の角のところで、台車をたためば眠れるスペースがあったため、台車を片して、そこで眠りました。頭の上には大きなスピーカーがあり、余震の揺れのたびにスピーカーも揺れているのが見えました。これが落ちて来たら、生きてはいられないだろうと思いつつも、仮に落ちてきたら、即死であって、苦しむこともないだろうと、妙に腹が座っていました。それくらい疲れていたのもあるかもしれません。

2021年3月12日(金)

 東日本大震災(2)
投稿:長野央希
眠れたか眠れないかよく分からないような一晩を過ごすと、朝のミーティングのために視聴覚室と思われる大広間に集合いたしました。全国からきている日赤の救護班に加えて、DMATのメンバーもおり、本日の業務などの確認を行いました。この3/14でDMATは撤収するということでしたから、その日からは災害医療の現場は基本的に日赤の医療チームが主体になって診療にあたることになります。
朝のミーティングは、単なる業務連絡かと思いきや、石巻日赤の医師陣は、疲労のピークということもあってか、すんなりとした業務連絡に終わらず、災害医療チームのリーダーの医師に対して、公然と怒りをぶつけたり、文句を言うようなシーンも見られ、かなりピリピリしたムードに包まれていました。何とかその場もおさまると、具体的にどの医療班がどこに行くか等の振り分けが行われ、私たちの医療班は桃生地区の避難所を巡回する任務を受けました。三か所ほどの学校や公民館を巡回診療いたしました。前日までは津波で市街地も完全に浸水して、避難所までボートで行かなくてはならなかったという話でしたが、3/14は水もはけている部分も増えて、車移動が可能となっておりました。この桃生地区はやや山間の地域であったと記憶しておりますが、その分津波の被害をさほど感じなかった印象があります。小学校の体育館などが避難者の生活空間となっており、多くの人たちが段ボールなどで区画を分けつつ、家族同士身を寄せ合っているというような状況でした。
三か所ほど巡回し、概ね70人程度の患者さんの診療にあたりましたが、最も印象に残っているのが、津波の中何とか裸足に近い状態で逃げ延びてきた女子高生の方です。裸足で水の中を歩いてきたため、ガラスか何かで足を切っていました。傷自体はさほど重症なものではないのですが、震災の影響で上下水道とも機能しなくなっていましたので、当然水道も出ず、傷口を洗浄することも十分できないという状態で、持参している生食や蒸留水で、何とか毎日傷を洗浄するという処置が繰り返されました。傷をあまり清潔でない状態で縫合すれば、確実に感染を起こしてしまうため、傷の縫合は行わず開放したまま、洗浄し、抗生剤の内服のみを行っていただいておりました。この子の場合は傷の治療もさることながら、精神的なストレスで、発語が出来なくなっているということの方がより深刻であろうと考えられました。3/14時点では、この子の家族の安否すら確認できていない状態で、この年齢では考えられないような大きな心的ストレスを背負っていると言えます。
この事例は、もしかしたら、この東日本大震災のけがの典型的なものの一つと言えるかもしれません。災害の被災者の方は、津波を逃げ延びることのできた人は、概ね外傷は重症ではないこと、肉体的なダメージよりも精神的なダメージの方が大きいかもしれないこと。
その他では、着の身着のままで逃げてきたため、常時服用しなくてはならない薬が欲しいという患者さんが多数おられました。勿論、薬手帳などすべて紛失しているため、何の薬を服用しているかすら分からない状態でしたから、処方も非常に悩まされました。高血圧と高脂血症で薬を飲んでいますと言われれば、曲りなりの処方が出来ますが、御高齢の方によっては、自分が何の病気で治療しているかすら分かっていないケースがあり、どう処方すべきなのか途方に暮れそうなケースもありました。また、糖尿病でインスリンを自己注射していましたという方も複数おり、避難所で食生活も不安定になり、結果的に低血糖のリスクも高くなる懸念があることから、(低血糖よりは高血糖の方が、すぐに命にかかわることがないことも踏まえ)低血糖の起きにくい内服薬を処方して、何とか対応したのも強く記憶に残っています。
更に、何らかの疾患でワーファリンを内服している方への投薬も非常に悩みました。そもそも、ワーファリンを何mg内服しているかもわからない中、本来であれば、PT−INRという値を測定して、ワーファリンの分量を決めるところが、当然、そういった検査は全くできなくなっている状態でしたし、不規則な食事やストレスでワーファリンをいつもと同僚飲んだとしても、過剰に効きすぎてしまう危険もあり、バイアスピリンなどの薬剤でお茶を濁すしかない例もありました。

2021年3月12日(金)

 東日本大震災(1)
投稿:長野央希
東日本大震災から、ちょうど10年が経ちました。
この十年が速いと思う人もいれば、塗炭の苦しみで、あまりにも長いと感じた人もいるかもしれません。どのような10年だったかは、人によって異なりますが、復興に関わることや原発の問題など密度の濃い問題提起のなされた年月でした。
私は3/13〜15まで日赤の救護班として、宮城県石巻に行っておりましたので、その時のことを書いておきたいと思います。
個人的な話ですが、さかのぼって中越地震や中越沖地震の際に、私は都内の病院で働いておりました。特に中越地震の時には、関越道が大きく破損し、しばらく新潟に帰ることもままならず、震災で苦労している同胞のために、何一つ役に立てなかったことが、とにかく悔やまれ、何だか地元の人を裏切ったような罪悪感を抱き続けていました。そんなこともあり、東北で震災が起きた時には、その罪滅ぼしのような感情も入り混じって、救護班に志願いたしました。
2011年当時、私は埼玉県内の日赤病院で働いておりましたので、3/13に北埼玉から東北道を通って、仙台に向かいました。震災直後は、東北自動車道は車両通行止めとなっていたため、自衛隊車両と日赤車両の他は車が走っていない状況でした。そして、白河インターを過ぎたあたりから、高速の路面が陥没していたり、段差が出来ていたりと地震の爪痕を色濃く感じられるようになり、とても高速で運転できる状態ではなくなっていきました。何とか、仙台まで来たは良いものの、市街地は軒並み停電して、信号は完全に機能していませんでした。そして、宮城県庁に到着し、そこで到着報告と、任務の指示を仰ぎましたが、県庁の庁舎内は入り口を入ると、エントランスに所狭しと、布団やござを敷いて寝ている避難してきた人たちの光景が広がっておりました。階段の裏にも疲れ切って寝ている人がおり、本当にここが日本なのかと、目を疑うような状況です。県庁の会議室のような部屋が、対策本部となっており、そこでは県庁の職員や自衛隊員などが忙しそうに働いておりました。対策本部で石巻日赤に行くように指示を受けて、その足で石巻に向けて移動しましたが、高速もさることながら、下道も、段差ができていたり、倒壊した壁や塀で道路が遮断されていたりという極めて運転が大変であったと思いますが、日赤の職員の方々には無事に運転していただいて、改めて感謝いたします。話によると前日までは一面が水没していたということでしたので、それに比べると、車が走れただけ、水がはけてきていたということなのだと思われます。
14時に埼玉を出発し、石巻日赤に到着したのは、深夜の1時を過ぎていたと記憶しております。病院内も、エントランスからして避難してきた人たちが一面寝ています。病院の床は、水害の痕を示すように砂まみれでした。二階には、医局や視聴覚室がありましたが、その階段のところまで避難している人の寝床となっていました。二階は二階で、病院の職員や救護班が所狭しと、休息をとっており、廊下や図書室等、スペースがあれば、そこでスタッフが休んでいるという状況でした。
私たちの救護班では二名の看護師がおりましたが、到着するや、看護師は看護の手伝い要請を受けて、休息する間もなく手伝いに回っていきました。私や事務方は、ひとまず休息をとることが出来ましたが、当然寝るスペースなどほとんどなく、やむを得ず、院長室の前の廊下に布団を敷いたり、寝袋にくるまったりして、就寝しました。院長や副院長もみな泊まり込んでおられ、トイレなどに行く際に、我々のような廊下で寝ているものを踏まないように、気をつけて歩かれていました。

2021年3月11日(木)

 マインドコントロール
投稿:長野央希
福岡で5歳の子供を餓死させたということで、母親が逮捕されるという事件がありましたが、報道によれば、母親のいわゆる「ママ友」による恐怖支配からのマインドコントロールが事件の背景にある模様です。詳細は分かりませんので、無責任な批判は避けますが、亡くなった子供は本当に可哀そうでなりません。しばしば、犯罪の背景にこういった恐怖に基づくようなマインドコントロールが潜んでいるケースが認められます。洗脳されやすい性格の人もいれば、長期間にわたる恐怖や疲弊から洗脳を受けてしまうケースと様々ありましょう。
ただ、どの場合も、胸の悪くなるようなことや、大変後味が悪いことが多いような印象があります。
今回は、どうも、その「ママ友」による詐欺目的であるように見受けられますが、このように犯罪傾向の強い犯人によるマインドコントロールは、ある意味わかりやすい犯罪の構図と言えるかもしれません。
宗教(特に新興宗教の一部)によるマインドコントロール、洗脳も大きな問題に発展することがあります。教祖が、いわゆる詐欺師である場合には、当然、このような洗脳によって信者が犯罪に加担させられてしまう結果になります。一方で、教祖が、そういった犯罪傾向がなく、むしろ純粋に正義を貫くような「高潔な」精神の持ち主の場合も、決して安心とは言えないように見受けられます。というのも、教祖にとっての正義が、たとえどんなに立派な正義でも、社会通念上受け入れがたい、あるいはすぐには受け入れられないような場合にでも、教祖がそれを押し通そうとして、信者を突き動かせば、大きなトラブルにつながってしまうからです。教祖が純粋に世直しをしようとして、強引に行動を起こせば、その宗教団体と社会では大きな軋轢が生まれ、結果的に、犯罪行為が生じてしまいます。ただし、その教祖(あるいはリーダー)に同調する勢力が、極めて多数になれば、それは革命に発展し、その勢力こそがその国家や社会のリーダーに逆転してしまうでしょうが。ナチスのヒトラーが好例かもしれません。
マインドコントロールは使い方によっては、非常に有用です。自分自身が自信をもって行動するうえでは、自分自身にマインドコントロールをかけるようなことが必要になります。「自分なら絶対に出来る」という自己暗示のようなものです。
しかし、使い方を悪用すれば、痛ましい事件は今後も後を絶たないでしょう。そして、こういった洗脳は他人ごとではないことを理解する必要があります。自分も、その被害者になるかもしれないし、逆に加害者になるかもしれないのです。インターネットなどの媒体で、妙な言説が垂れ流され、その影響下で、他者や他団体を攻撃して傷つけるような状況も含まれます。
それを防ぐためにも、あふれかえる情報が、正しいのものなのかを自身で判断し、取捨選択する必要があります。また、その情報源となっている人が表に出ているのであれば、その人そのものが信頼に足る人なのかを見極める眼力を養う必要があろうと思います。もっとも大事なことは、そういった情報に安易に流されず、他力本願な面を極力少なくして、他者への依存度を減らすことが必要なのではないかと思われます。


2021年3月8日(月)

 心を置き忘れたくない
投稿:長野央希
私はこれまで、いくつかの病院で勤務をしてまいりました。
都内でも、北海道でも、埼玉でも、新潟の魚沼でも、基本的には地域の中核病院と言われるような病院で働いてきましたが、地域の中核病院と言っても、非常に診療の内容に幅があります。それは医師や看護師、コメディカルの人数によって異なるとも言えますし、その地域の病院の数にもよって異なるとも言えます。
大学病院のように、各医師が専門科のみの治療に専念する病院もあれば、専門科以外もカバーしなくてはならない病院もあります。
私は、長らく医師不足で医師派遣要請している赤十字の派遣医師として、派遣されていた経緯もあり、地域の中核病院と言え、とにかく幅広い診療を求められてきたため、それが当たり前ととらえていました。幅広く、色々な病気の治療にあたるということは、時に恐ろしいと感じることもありましたが、医師不足の地域では、目の前の苦しんでいる患者さんを前にして、自分がやらざるを得ないというような「腹が座る」ような状況になっていった記憶があります。
一方で、大学関連の地域中核病院は大学的なスタンスになるので、当該科以外を診るということは、日当直以外では求められませんでしたし、各医師とも、他科の疾患を治療することに強い難色を示していました。それだけ、各課の意思の人数がそろっているということで、患者さんにとっても、よりよい医療を提供できるという意味で、良いことだとは思います。しかし、自分の専門領域のみ診ると言うことは、自分の科の治療が終了すれば、後はどうでもいいというようなスタンスの医師も生み出してしまいかねないという結果になってしまいます。
私がいた血液内科というのは、非常に専門性の高い領域でありましたので、他科の医師が関与を控えたがるような面もありました。血液内科で治療する疾患は、白血病、リンパ腫、骨髄腫などの血液ガンや、再生不良性貧血、免疫性血小板減少性紫斑病といった疾患が主体になります。どの疾患も、抗がん剤や免疫抑制剤などの治療を行うため、治療自体が、しばしば苦痛を伴うことがあります。患者さんは、治りたいがために、そういった苦痛にも耐えて治療に臨んでいますが、残念ながら、時に治療の甲斐もなく、疾患が治らず、全身状態が悪化していってしまう場合もあるのです。治療がうまくいっている時は、治療者側も患者さん側も気分が良いものですが、一度治療がうまくいかなくなると、両者とも多くの苦悩にさいなまれます。殊に、患者さんの側では、不安や焦燥、不信などの感情がわいてくるものですが、そういった場合に医療者が患者さんにどう寄り添えるかが重要なのですが、医師によっては、自分は治療のみを行っていさえすればいいということで、患者さんの身になって物を考えることが出来ない者もいます。また、様々な治療を行って、病気が治らないうえに、ちりょうによる疲弊で衰弱して、自宅での生活がままならなくなるケースもあり、その場合は、療養型の病院への転院をお願いしたりしますが、この時、自分の医師としての無力感を感じてしまうものでした。治療として、いわゆるガイドラインに沿った治療を行っていても、自分の治療選択が正しかったのだろうか等の自問自答をしつつ、「自分のやるべき治療が終わったから、後はほかのところでお願いします」というのも、非常に心苦しく感じてきました。各病院の治療できるキャパシティの問題があるので、やむを得ないこととはいえ、自分はなんと無責任なのだろうと、自己嫌悪に陥ることもありました。
患者さんを病気のみ診るのではなく、患者さんを全体的に診ることのできる医師になりたいと思い続けています。医師である前に、一人の人間として、人間の心を持った医師でありたいと思っています。

2021年3月5日(金)

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