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 東日本大震災(6)
投稿:長野央希
私は、2011年5月末に再度日赤救護班として、岩手県の釜石に行きました。
この時期には、新幹線含めた鉄道の運航が再開しているところも増えてきておりましたので、電車で埼玉から釜石に行ってきました。宮沢賢治ゆかりの土地ということもあり、駅には銀河鉄道にちなんだようなモニュメントなどがありました。釜石につくと、駅構内は一部工事中であったと記憶しておりますが、通常業務が遂行されておりました。
そこから日赤の救護班が集合しているプレハブのようなところに行き、業務連絡や任務の確認を行いました。流石に、3月の時点と比べると、大分切迫している感じは無くなっていました。二日間にわたりいくつかの避難所を回診するという任務を与えられました。市街地からそばの避難所は小学校の体育館を利用していたりしており、一方で、山間の避難所では、公民館や神社の社殿が避難スペースになっているところもありました。
震災後2か月経過しておりましたので、地域の基幹となるような病院は業務を再開しているところが増えておりました。そのため、3月のような混乱したような診療風景はほとんどなくなっておりました。基本的には避難所で風邪を引いた患者さんの診察などが主体でしたし、より重要であったことは心のケアであったと言えます。日赤としては心のケア班を派遣しておりましたから、救護班とともに心のケア班が同時に働いておりました。
ちなみに、2回目の救護班の際には、自分についている研修医にもついてきてもらいました。災害救護というものを経験するということは、医師としても非常に重要な経験であろうと考えられましたので、研修担当の責任者である副院長にお願いしていました。彼は、避難所で、色々な人の話に耳を傾けてくれましたし、ハチ刺されなどの患者さんの処置も手伝ってくれて、大いに助かりました。
また、釜石の医師会の方などとの打ち合わせのために公民館に行く機会がありました。この打ち合わせ自体は業務連絡程度で、すぐに終了しましたが、むしろ、その公民館のエントランスホールで、まだ消息の分からない被災者の方々の人探しの張り紙が多数あり、とてもやりきれない思いがしました。とりわけ、二歳の子供を探しているという張り紙には、涙が出そうになりました。2歳の子供が二か月以上も親なしで生存している可能性は極めて低い状況で、その子供もかわいそうに思うとともに、その親の心情たるや、計り知れない苦悩に満ちた日々を送っていることが想像され、言葉に出来ないような虚無感を感じました。
実際に、その母親と思われる方を避難所で診察しました。症状は不眠でした。基本的には多少の不眠で安易に睡眠薬を処方することは望ましくないのですが、このようなケースでは少しでも不安や焦燥を抑えてあげられるような薬剤が必要であろうと判断し、抗不安薬を処方しました。

2021年3月13日(土)

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