東日本大震災(2) |
投稿:長野央希 |
眠れたか眠れないかよく分からないような一晩を過ごすと、朝のミーティングのために視聴覚室と思われる大広間に集合いたしました。全国からきている日赤の救護班に加えて、DMATのメンバーもおり、本日の業務などの確認を行いました。この3/14でDMATは撤収するということでしたから、その日からは災害医療の現場は基本的に日赤の医療チームが主体になって診療にあたることになります。 朝のミーティングは、単なる業務連絡かと思いきや、石巻日赤の医師陣は、疲労のピークということもあってか、すんなりとした業務連絡に終わらず、災害医療チームのリーダーの医師に対して、公然と怒りをぶつけたり、文句を言うようなシーンも見られ、かなりピリピリしたムードに包まれていました。何とかその場もおさまると、具体的にどの医療班がどこに行くか等の振り分けが行われ、私たちの医療班は桃生地区の避難所を巡回する任務を受けました。三か所ほどの学校や公民館を巡回診療いたしました。前日までは津波で市街地も完全に浸水して、避難所までボートで行かなくてはならなかったという話でしたが、3/14は水もはけている部分も増えて、車移動が可能となっておりました。この桃生地区はやや山間の地域であったと記憶しておりますが、その分津波の被害をさほど感じなかった印象があります。小学校の体育館などが避難者の生活空間となっており、多くの人たちが段ボールなどで区画を分けつつ、家族同士身を寄せ合っているというような状況でした。 三か所ほど巡回し、概ね70人程度の患者さんの診療にあたりましたが、最も印象に残っているのが、津波の中何とか裸足に近い状態で逃げ延びてきた女子高生の方です。裸足で水の中を歩いてきたため、ガラスか何かで足を切っていました。傷自体はさほど重症なものではないのですが、震災の影響で上下水道とも機能しなくなっていましたので、当然水道も出ず、傷口を洗浄することも十分できないという状態で、持参している生食や蒸留水で、何とか毎日傷を洗浄するという処置が繰り返されました。傷をあまり清潔でない状態で縫合すれば、確実に感染を起こしてしまうため、傷の縫合は行わず開放したまま、洗浄し、抗生剤の内服のみを行っていただいておりました。この子の場合は傷の治療もさることながら、精神的なストレスで、発語が出来なくなっているということの方がより深刻であろうと考えられました。3/14時点では、この子の家族の安否すら確認できていない状態で、この年齢では考えられないような大きな心的ストレスを背負っていると言えます。 この事例は、もしかしたら、この東日本大震災のけがの典型的なものの一つと言えるかもしれません。災害の被災者の方は、津波を逃げ延びることのできた人は、概ね外傷は重症ではないこと、肉体的なダメージよりも精神的なダメージの方が大きいかもしれないこと。 その他では、着の身着のままで逃げてきたため、常時服用しなくてはならない薬が欲しいという患者さんが多数おられました。勿論、薬手帳などすべて紛失しているため、何の薬を服用しているかすら分からない状態でしたから、処方も非常に悩まされました。高血圧と高脂血症で薬を飲んでいますと言われれば、曲りなりの処方が出来ますが、御高齢の方によっては、自分が何の病気で治療しているかすら分かっていないケースがあり、どう処方すべきなのか途方に暮れそうなケースもありました。また、糖尿病でインスリンを自己注射していましたという方も複数おり、避難所で食生活も不安定になり、結果的に低血糖のリスクも高くなる懸念があることから、(低血糖よりは高血糖の方が、すぐに命にかかわることがないことも踏まえ)低血糖の起きにくい内服薬を処方して、何とか対応したのも強く記憶に残っています。 更に、何らかの疾患でワーファリンを内服している方への投薬も非常に悩みました。そもそも、ワーファリンを何mg内服しているかもわからない中、本来であれば、PT−INRという値を測定して、ワーファリンの分量を決めるところが、当然、そういった検査は全くできなくなっている状態でしたし、不規則な食事やストレスでワーファリンをいつもと同僚飲んだとしても、過剰に効きすぎてしまう危険もあり、バイアスピリンなどの薬剤でお茶を濁すしかない例もありました。 |
2021年3月12日(金) |
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