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 東日本大震災(1)
投稿:長野央希
東日本大震災から、ちょうど10年が経ちました。
この十年が速いと思う人もいれば、塗炭の苦しみで、あまりにも長いと感じた人もいるかもしれません。どのような10年だったかは、人によって異なりますが、復興に関わることや原発の問題など密度の濃い問題提起のなされた年月でした。
私は3/13〜15まで日赤の救護班として、宮城県石巻に行っておりましたので、その時のことを書いておきたいと思います。
個人的な話ですが、さかのぼって中越地震や中越沖地震の際に、私は都内の病院で働いておりました。特に中越地震の時には、関越道が大きく破損し、しばらく新潟に帰ることもままならず、震災で苦労している同胞のために、何一つ役に立てなかったことが、とにかく悔やまれ、何だか地元の人を裏切ったような罪悪感を抱き続けていました。そんなこともあり、東北で震災が起きた時には、その罪滅ぼしのような感情も入り混じって、救護班に志願いたしました。
2011年当時、私は埼玉県内の日赤病院で働いておりましたので、3/13に北埼玉から東北道を通って、仙台に向かいました。震災直後は、東北自動車道は車両通行止めとなっていたため、自衛隊車両と日赤車両の他は車が走っていない状況でした。そして、白河インターを過ぎたあたりから、高速の路面が陥没していたり、段差が出来ていたりと地震の爪痕を色濃く感じられるようになり、とても高速で運転できる状態ではなくなっていきました。何とか、仙台まで来たは良いものの、市街地は軒並み停電して、信号は完全に機能していませんでした。そして、宮城県庁に到着し、そこで到着報告と、任務の指示を仰ぎましたが、県庁の庁舎内は入り口を入ると、エントランスに所狭しと、布団やござを敷いて寝ている避難してきた人たちの光景が広がっておりました。階段の裏にも疲れ切って寝ている人がおり、本当にここが日本なのかと、目を疑うような状況です。県庁の会議室のような部屋が、対策本部となっており、そこでは県庁の職員や自衛隊員などが忙しそうに働いておりました。対策本部で石巻日赤に行くように指示を受けて、その足で石巻に向けて移動しましたが、高速もさることながら、下道も、段差ができていたり、倒壊した壁や塀で道路が遮断されていたりという極めて運転が大変であったと思いますが、日赤の職員の方々には無事に運転していただいて、改めて感謝いたします。話によると前日までは一面が水没していたということでしたので、それに比べると、車が走れただけ、水がはけてきていたということなのだと思われます。
14時に埼玉を出発し、石巻日赤に到着したのは、深夜の1時を過ぎていたと記憶しております。病院内も、エントランスからして避難してきた人たちが一面寝ています。病院の床は、水害の痕を示すように砂まみれでした。二階には、医局や視聴覚室がありましたが、その階段のところまで避難している人の寝床となっていました。二階は二階で、病院の職員や救護班が所狭しと、休息をとっており、廊下や図書室等、スペースがあれば、そこでスタッフが休んでいるという状況でした。
私たちの救護班では二名の看護師がおりましたが、到着するや、看護師は看護の手伝い要請を受けて、休息する間もなく手伝いに回っていきました。私や事務方は、ひとまず休息をとることが出来ましたが、当然寝るスペースなどほとんどなく、やむを得ず、院長室の前の廊下に布団を敷いたり、寝袋にくるまったりして、就寝しました。院長や副院長もみな泊まり込んでおられ、トイレなどに行く際に、我々のような廊下で寝ているものを踏まないように、気をつけて歩かれていました。

2021年3月11日(木)

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