「悟る」ということ |
投稿:長野央希 |
私は仏教徒ではないので、いわゆる悟りというものを真に理解はできないと思われます。一方で剣豪小説や剣豪物の映画などが好きでよく見ておりますが、剣術の達人の無の境地というのは悟りの境地と同じようなものなのではないかと思えてきます。 悟るということは、究極的には自然との同化と結びつくのではないかと、自分なりに解釈しています。自分も含めた人間も自然の一部でしかなく、その現実を受け入れ、自然と一体となれるか、そのためにはどうすべきなのかを考えると、「見ざる、言わざる、聞かざる」の実践となるのではないかと思われてきます。人は、何かを見聞きすれば、色々な知識が集積してきます。そうなると、もっと知りたい、何が欲しいなどの様々な欲望が生まれてくる気がします。何も見なければ、何も聞かなければ、何も知らなければ、自分と他人を比較して、他人を嫉妬したり、ねたんだりすることもなくなります。何かを知ることは煩悩の根源なのではないかとすら思えてきます。 知ることを放棄すれば、争いもなくなるのかもしれませんし、そもそも自然の一部として、その生を全うするのみとなるのでしょう。 これは、しかし、言うことはたやすいかもしれませんが、少なくとも現時点での自分が実践できるような生半可なものではないと言えます。こういったことができるからこそ、悟りを開いた僧侶は尊敬に値するのでしょうし、剣豪は死を超然と受け入れられるのかもしれないななどと考えてしまいます。 また、知りたいという欲求を放棄することは、少なくとも若い時分には、向上心がないことのようにも思えてしまい、人間とはどうあるべきなのか、まるで結論が出ない今日この頃です。 |
2020年12月11日(金) |
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