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スポーツ応援という宗教 |
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投稿:長野 央希 |
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現在、北中米W杯が着々と進行し、ベスト8まで出そろいました。 様々な物議をかもしている大会ではありますが、色々な問題はこれまでの大会でもありましたので、物議をかもすこと自体は珍しくはないと言えます。しかしながら、一国の大統領がFIFAの会長に電話したりということが公の場にさらされること自体、とんでもない問題ではありましょう。(もしかしたら、これまでも秘密裏にそう言ったことが行われていたのかは分かりませんが) 五輪もW杯も商業主義、拝金主義的な要素が増大していることの弊害のようにも思えます。 そもそも、ウクライナに戦争を吹っ掛けたロシアを出禁にしておきつつ、イランに戦争を仕掛けた米国はのうのうと出場しているということが大きな矛盾であるはずなのに、それは誰も騒がない。米国という金の成る木は大会主催者側には不可欠だからなのでしょうが。 ベスト8の顔ぶれを見ると、そのうち6か国が欧州になります。今のサッカーというものが組織戦、総力戦になっていいることの証左なのかもしれません。 アルゼンチンとエジプトの試合は、大会史上でも最も劇的な試合であったかもしれませんが、エジプト側は審判のアルゼンチン寄りの判定に対する不服を訴えております。ただ、主審はフランス人なので、自国のためにアルゼンチンに不利な判定を下してもおかしくはなさそうですが、そうはしませんでした。アルゼンチンに買収されていたような感じにも見えません。ただ、アルゼンチンのリーダーであるメッシはすでに20年、世界のトップオブトップのような存在として活躍してきたため、サッカーの業界人からすると、すでに神格化されていたり、子供のころからのヒーローのような存在で、あこがれの対象とすると、無意識化にメッシの側に有利な判定を下してしまう可能性もあるのだろうかなどと考えてしまいます。 ベスト8のフランス対モロッコ戦の審判がアルゼンチン人のみで構成されるということで、フランスに不利な判定を下すのではという懸念がなされております。何故こんなきな臭い人事をしたのかという思いにもなります。仮にアルゼンチンが勝ち進んだ場合、その勝利にケチをつけられるような事態は避けた方が、後味もいいと思うのですが。 以前ほどではないですが、サッカーの熱狂的なファンやフーリガンの事件というのは今でも時々話題になります。スポーツ応援という物には、宗教のような狂信性を伴う面があるように思えます。 自分の青春時代を振り返ると、強く思い起こされるのです。 自分は浪人時代、最も狂信的な広島東洋カープの信者となっていました。 自分の不勉強ということがまいた種で浪人しておりましたが、その時期は常に自分が不遇であるような気持ちを抱いておりました。そう考えること自体、自分の非を棚に上げて、周囲に責任転嫁しているわけで、自分の精神的な稚拙さを如実に表しているのですが、当時の自分はそんなことにも思い至りませんでした。現実逃避のように広島の野球の試合にのめりこみ、横浜に住んでいましたが、必死でRCC中国放送のラジオに合わせて、ものすごい雑音の中で中継を聴き、負ければ、翌日は一日不機嫌の塊のようになっている。あの時期に、身の回りに同じような熱狂的な広島ファンの人が数人いたら、恐らくフーリガンになっていたのではないかと思えます。 自分の境遇に不満を抱えていたり、不遇であると思えたりしていると、(自分の側に非があろうとなかろうと)スポーツチームや芸能人のアイドルなどに希望を託し、感情移入し、いつしか狂信的な信者になっていくように思えます。そして、その個人が精神的に未熟であればあるほど、自分の感情を抑えるすべを知らないために、その狂信性や暴力性が高まってしまう。また、精神的な未熟さは自己決定することでの責任が生まれることを避けたがる傾向があり、自己決定する代わりに、応援する対象、信仰する対象の動向で、自分の決定もゆだねてしまうようになる依存性もあるように思えるのです。 宗教の信者と熱狂的なファンというのはその信仰する対象は異なっていても、類似点が多々あるように感じられます。 自分は、その後社会人として責任を伴う仕事をするようになっていくと、いつの間にか、広島カープへの妄信はなくなっていきました。ファンではあっても、広島の勝敗に生活を支配されるようなことはなくなっていきました。 今思うと、病的であったのかもしれません。 スポーツチームやアイドルが生活の大きな部分を占めている人の中には、かつての私のような人もいるのではないかと思います。少し冷静になって、自分自身を分析してみることも必要なのかもしれません。 |
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2026年7月9日(木) |
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