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『ドン・ジョヴァンニ』 |
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投稿:長野 央希 |
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新型コロナ流行時期は、自分が始終、発熱外来をしていたため、自分が感染源になることを避けるために、スポーツ観戦や音楽コンサートに行くことを自重しておりました。 ようやく、パンデミックも終わり、時間も経ちましたので、野球を見に行ったり、コンサートに行けるようになりました。 先日、モーツァルト曲目のコンサートに行ってきました。 都内、埼玉で働いている際には、しばしばコンサートとりわけオペラを聴きに行っていました。 自分はモーツァルトのオペラでは『ドン・ジョヴァンニ』が最も好きです。 最初のドイツオペラともいわれる『魔笛』は音楽的には素晴らしいのですが、話の内容がやや稚拙な感じを受けてしまうこともあり、ドン・ジョヴァンニのほうがより内容の充実度も考え、自分としては軍配を上げてしまいます。 ドン・ジョヴァンニ自体は、今の通念で行けば、下衆な放蕩者ということにはなるでしょう。手あたり次第といった感じで、女性に手を出し、邪魔建てした騎士長を殺してしまう。これだけでは、本当に屑野郎ということになります。 ただ、従者のレポレッロが歌うところで、ドン・ジョヴァンニが女性であれば、老若、美醜問わず、だれでも愛せるというような趣旨のセリフがあるように、ある意味、神のような心ともいえる気がします。やっていることは、ギリシア神話の最高神であるゼウスと同じようなものです。ゼウスもやたらと女好きで、多くの人間女性に手を出して、孕ませています。しかし、ゼウスは全能の神として尊崇を集めるのに対し、ドン・ジョヴァンニは放蕩者の悪人とされてしまう。 この対比は非常に興味深いもののように思われます。 やっていることは褒められるような類ではないが、少なくとも、ドン・ジョバンニには彼の美学や哲学があって、それを貫いている。そこに彼の格好良さが感じられます。しかも、彼は最終的に自分が殺した騎士長の亡霊に地獄に連れていかれることになりますが、死ぬ間際においても、彼は自分の生き方を悔いることはなく、死んでも自分の生き方を貫いたところに、究極の格好良さがあるような気がします。罪を重ねて、自分の犯した罪で裁かれるに際して、急に被害者面する人が度々見受けられますが、ドン・ジョヴァンニは全く被害者ポジションをとることもありませんでした。その死に様も、彼なりの美学を貫き通した結果と言えましょう。 また、彼の敵対者としてドン・オッターヴィオという品行方正な騎士の鑑ともいえるような貴族が出てきますが、正直なところ、昔から彼のアリアには、何か魅かれる要素が乏しいと感じてきました。 品行方正というのは一般的には価値の高いものではあるのでしょうが、きれいごとを言っているだけのように思えてしまうことがしばしばあります。 今の時代も、沢山の人が、現実に即さずに、きれいごとのような理想論を展開しております。机上の空論としての理想論というのは、その人の単なる自慰行為のようにしか見えないのです。しかも、時には大変有害な場合があります。 『ドン・ジョヴァンニ』という作品は、常識的と言われる一般大衆が理解しないものは排除しようとする人間社会において、その常識にとらわれず、無茶苦茶な言動ができる人こそが、人間の歴史を大きく変革できるものの、大概は、そういった英雄は、大衆の理解を超えていることから浮き上がる恐怖と、自分たちにはまねできないことをしでかす言動への羨望と同時に嫉妬から上げ足をとられるようになり、最終的に不幸な末路をたどることになるという、ある種の人間社会の普遍性を表しているからこそ、名作として今に至るまで残り続けているのではないかと思います。 |
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2026年6月25日(木) |
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